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上村元のひとりごと その223:鯨

 こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。

 ミントは、鯨が大好きです。

 生物の、クジラのことではありません。クジラの肉を、加工調理したもののことでもありません。

 日本酒です。

 高知県の蔵元の、「酔鯨」という清酒が、のんべえのミントにヒットして、もはや、それしか飲まない。

 というか、僕が、それ以外を買わない。

 自分が酒飲みではないので、どれにしようか。スーパーの棚の前で、長考して、決めかねて、最後は、見た目。

 ラベルに、ご機嫌なクジラが泳いでいるのが、なんだか気に入って、一晩に、おちょこ一杯しか飲めないのだ。瓶を長く置いておくことになるのだから、眺めていて、和むものがいいよな。よし、これにしよう。

 と、初めのうちは気にしていた、アルコール度数とか、全体の量とか、お値段とか、どうでもよくなって、買ってから、しまった。辛口か。

 飲みきれなかったら、どうしよう。

 不安になりつつ、開栓し、おそるおそる、差し上げてみたところ。

 ふまっ。

 小さな黒い目を、それはもう、らんらんと見開いて、ちぴちぴ。一口舐めては、めやーん。ちぴちぴ。二口舐めては、むふーん。うっとりと、満面の笑み。

 猫舌に、熱燗はきついかと、ぬるめに温めたおちょこの中、今日もまた、ミントは鯨に夢中です。

 酒をふくむと、口内が、一瞬、ぶわっ。燃え広がったようになります。

 同時に、脳内が、一瞬、ふわっ。

 しめつけが、外れたようになり、なんと言ったらいいか。それは豊かな、馥郁とした空間が、展開します。

 永劫に拡大された刹那が、立ち現れるのです。

 ただ、ほんの一口では、その豊かさは、持続しない。あっという間に、空間は、閉じて、いつもの、重たい、せせこましい頭。

 それでいいと、思っていました。

 酒の力を借りてまで、脳内に、異次元を作り出さなくてもいい。たまに、生活においても、素晴らしい瞬間が来るのだから、しらふのまま、待っていればいい。

 でも、今は。

 できるなら、酒だけ、飲んでいたい。

 味噌汁と、白飯と、大根の漬け物に、ほっとして、やっぱり、酒より、ごはんだな。ミント、ちょっとは、食べなよね。飲んでばかりじゃ、身体に悪いよ。ついつい、そう言ってしまう自分を、忘れたい。

 病んで施設にいる父のことも、介護に通っている母のことも、全て見捨てて酒を飲んでいる自分のことも、何もかも、脳裏から、消してしまいたい。

 逃げたのだから。

 帰ってくるなという、母の手紙を、額面通りに受け取って、僕は、今、ここにいる。

 もしかしたら、それでも、帰って来い。助けて欲しい。母は、そう言っていたかもしれないのに。

 疫病のせいではない。稼げないせいでもない。

 これまで、ことあるごとに、父を避け、母を遠ざけていた、小さな拒絶が、積もり積もって、今、僕に、何もできなくさせている。

 僕が悪い。

 正確に言えば、これまでの、僕が悪い。

 こうなる前に、きちんと、両親と関わるべきだった。

 それができないのなら、家を出た、その時点で、ばつんと、一切の関わりを絶つべきだった。

 中途半端に、毎年、年末には帰省して、心ない会話を交わし、また戻って、ほぼ音信不通で暮らし、年末には帰省して、心ない会話を交わし、以下同文。

 そんな十数年が、僕の胸を、絞めている。窒息するくらいに。窒息したいくらいに。

 ふまーお。

 いい気分のミントが、とてっ。特等席から、飛び降りて、千鳥足。とまでは行かないけれど、ちょっとよろよろした感じで、僕のところへ歩いてきて、すりすり。んふーん。あぐらの膝に、ほっぺたをすりつけます。

 青緑色の毛皮を、抱き上げて、おちょこを握り、炬燵の上、鎮座する父のカメラに、そっと掲げます。

 まだ、父は生きている。

 そのことだけが、僕を、自責の自死から救いました。

 もう二度と、面と向かって、まともな会話はできないが、それでも、生きているのなら、きっと、この酒が、父の最後を温める。

 血を分けた、息子の舌を通って、永劫の刹那が、父にも、開くはず。

 みににに。てぃるるる。

 くつろいで、喉を鳴らすミントを撫でて、ゆっくりと、鯨を干し、パソコンデスクの上、日野のじいちゃんのラジオを見上げます。

 ごめんね、じいちゃん。父さんは、まだ、そちらにはやれないよ。

 本当は、ラジオと、カメラを、並べたかったんだけどね。そうしたら、父さんもすぐ、雲の上に、行っちゃう気がしてさ。

 まあ、娘婿だから、いいよね。生前も、交流はなかったみたいだし。今さら一緒にされても、かえって、気づまりでしょう。

 いつか、僕が、そっちに行くからね。

 その前に、ミントが、クジラに乗って、旅に出るからね。出迎え、どうか、よろしくね。

 恥ずかしいことに、僕はどうやら、泣き上戸らしい。あんまり、飲まない方が、いいみたいです。それでは、また。

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