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上村元のひとりごと その119:梨

 こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。

 ミントは、やり遂げました。

 歯医者での、三十分弱の診療の間、大きな声を出すこともなく、むやみに鈴を鳴らすこともなく、エコバッグの中で丸まって、ご機嫌に過ごしました。

 手荷物は、診察台の足元に置いておく方式だったのも、幸いしました。ずっと、担当の歯科衛生士の反応をうかがっていたのですが、特に不審がる様子もなく、預かって、また、返してくれた。バッグの中身が、ぬいぐるみの猫だとは、気づかれなかったらしい。

 取れた詰め物が、無事に詰め直されたことよりも、治療費が、会社員時代よりもはるかに上がったことよりも、ミントの方に気を取られていて、ようやく頭が働き出したのは、部屋に帰ってから。

 とにかく、手を洗い、うがいをし、部屋着に着替えて、原稿を書き、それでも、まだ昼ご飯には早い。

 急いで出かけてしまうと、その後がぽっかりと暇になり、心に空白が生まれる。焦って詰めた分の代償です。均等に、緩急つけられたらいいのですが、そういうわけにもいかない。

 引き続きご機嫌に、ミントは、部屋の中を歩き回っています。

 ごそごそ、ごっとん。ぬぎー。ぐわー。べったん、むふーん。

 背後で、ひとしきり乱闘があって、何をしているのか、振り向くと、昨日の夜、最後の一個を冷蔵庫に入れて空いた、梨の段ボール箱を突き飛ばし、跳ね返ってきて頭にぶつかり、むくれてまたどつき、最終的に、ひっくり返し、底に乗っかってご満悦。

 母の幼なじみである、富美子さんは、千葉県の船橋市で、ご主人とともに、梨農園を経営しています。小さい頃から、毎年、八月になると、埼玉県の我が家に、箱入りの、立派な幸水が送られてきました。

 ところが、父は、梨を食べない。

 嫌いなのか、アレルギーでもあるのか。一度も聞いたことはないが、とにかく、手をつけようともしない。母も何も言わず、父には決して勧めず、いっぱい食べなさい、と、山盛りの梨の皿を、僕の前に置いてくれる。

 梨は好きだけれど、食べない父の前で、がつがつ食べるのは、なんとも言えない虚しさがありました。

 富美子さんは、律儀な方で、今でも毎年、梨を送ってくださるのですが、母一人では食べきれないので、開封し、いくつか抜いたうえで、再度、封をして、箱ごと都内の僕の部屋へ転送です。みずみずしく、甘く、とてもおいしい。

 ここ数年、箱には、梨のキャラクターのイラストが描かれています。船橋の梨、略して、ふなっしー、というらしい。

 とてっ。段ボール箱から飛び降りて、ふんふんと匂いを嗅いで、前脚で、仰向けにひっくり返し、ミントは、中に飛び込んで、ぬふーん。しっぽをぽたぽたと振って、すっかりマイルーム。

 ただ単に、船橋の梨、と文書いてあるだけの段ボールだったら、すぐにカッターを入れて、資源ゴミの集積所に持っていくのに、ふなっしーがいるだけで、なんだか捨てづらくて、去年のも、その前のも、クローゼットに積んであります。

 キャラクターの役目とは、もしかしたら、用途だけで物の価値を判断することに対して、ささやかに、異議を申し立てることにあるのかもしれない。

 梨が終われば、箱はいらない。じゃあ、箱入りではなく、袋詰め、あるいは、ばら売りのを買えばいい。幼なじみに、何十年も義理を立てて、息子しか食べない梨を、箱で送らなくたっていい。そうすれば、財布も気も楽だし、資源の節約にもなる。そうだろう?

 いや、違う。正しいけれど、そうではない。そうであっては欲しくない。

 母だって、富美子さんだって、わかっている。父は梨を食べないし、僕は遠くに住んでいる。いつだって、送るのを断れるし、やめられる。

 送り続けているのは、受け続けているのは、ひとえに、愛です。

 今年も梨が実ったよ、嬉しいね。いろいろあったけど、お互いに、元気で生きていたね。来年もまた、きっと生きていようね。

 ただ、それを確認するためだけに、梨は、あちこちを行ったり来たりする。可愛いふなっしーに守られて。

 ぬいーん、と伸びをして、段ボールの壁にぶつかり、むがー。腹を立てて、べしべし。前脚で箱を殴って、とてっ。飛び出しては、頭突きをして、ひっくり返し、また乗っかって、むふーん。

 母と富美子さんが、節約家だったら、ミントは、空き箱で遊べなかった。愛ある無駄は、許容を生むのです。いいよ、好きにしなよ。何に使えばいいかなんて、なんにも決まってないんだから。

 歯医者を頑張ったご褒美に、最後の梨をむきましょう。直したばかりの詰め物が取れないように、噛むのは、そうっと。それでは、また。

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