見出し画像

上村元のひとりごと その22:須崎先生

 こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。

 二ヶ月前、母から着信がありました。

 お前の小学校卒業時の担任だ、と称する男性から電話を受けた。高齢で、かなり耳が遠く、推測だが、ご病気の気配も感じられた。

 詐欺の一種かもしれず、折り返し連絡させますので、番号をお教え願えますか、と問うても、要領を得ず、やがて通話は打ち切られた。

 リダイヤル機能で番号を検め、お前の卒業アルバムと照らし合わせたところ、確かに、同一の数字が記されていた。間違いはないと思うが、掛け直すか否かは、お前の判断に任せる。

 母が告げた番号に、須崎裕、という名前を書き添え、次の日に必ず、と決めていたものの、取材が立て込み、締め切りが厳しく、やっとスマホを手にしたのは、休業でぽっかりと暇ができた、先月半ばの昼下がりでした。

 僕の記憶の中で、須崎先生は、いつも白衣を着ています。痩せて、小柄で、猫背気味にうつむいて、僕たち生徒に目線を合わせ、穏やかに話す人だった。

 園田くんの葬儀では、学校側の代表として弔辞を読み、淡々とした、しかし、無念のあり余るその声に、みんな、ようやく泣けてきたのを覚えています。

 小学校を出て、二十五年。歳月は、人を変えたでしょうか。

 緊張しながら、呼び出し音に耳を打たせ、お留守かな、とあきらめかけた沈黙の後、つっ、とノイズが途切れ、はい、須崎です、と、決して高齢とは言えない男性が応じました。

 一瞬、やはり詐欺だったか、と思ってしまったことを告白します。

 それでも、どうにか気を鎮め、呼吸を整え、上村元と申します、先日、お電話をいただいた、須崎先生の教え子です、と名乗った途端、他人行儀だった相手が一変し、ああ、申し訳ない、それは父です、わざわざおかけくださって、本当にすみません、と繰り返し詫びられました。

 いえ、こちらこそ、ご連絡が遅くなりまして、と言うと、いやいや、とんでもない、本来、こちらから陳謝せねばならないことです。

 お恥ずかしながら、父は認知症を患い、この度、戻らない入院生活に移行しました。最後に自宅で過ごした夜、何を思ったか、急に受話器を握り、大事に手元に置いてあった、あなた方の年度の卒業アルバムを繰って、次々と、掛けては切り、掛けては切り、そのまま寝入ってしまいました。

 いったい、いくつのお宅にかけたかわからない。あなたの他にも、数件、お問い合わせの電話をいただき、発信履歴を辿らなくては、と思っていたものの、疫病の蔓延により、父の入院先が急に閉鎖され、代わりの施設探しに奔走するうち、ついつい後回しになってしまった。

 お電話代も出せず、誠に遺憾ではありますが、ここに深くお詫びいたしますので、何とぞご寛恕のほどを、と丁重に頭を下げられ、かえって恐縮しました。

 そうですか、それは残念です。先生のお声がぜひ聞きたかった、と呟くと、そうなんです、僕もです。僕は、父の声が好きだったんです。僕も教師なのですが、父のあの声は、どうやっても真似できない。ずっと聞いていると、しみじみと、生きていてよかった、と、ため息をつきたくなるような声でしたね、と、寂しい笑いが返ってきました。

 しみじみと、生きていてよかったと、ため息をつきたくなるような声。

 通話を終えた後も、僕の耳には、ご子息のその言葉がしみついて、今でも薄まらない。

 僕たちの学年を見送って、先生は、定年退職されました。そろそろ卒寿、ゆっくりと終わりが近づいている人生に、その言葉は、最高の餞に思われる。血を分けた息子のものであれば、なおのこと。

 残念ながら、僕は父に向けて、何も言うことができそうもない。

 今のままでは、という条件が付いてはいるけれど、それでも、言えない。言いたくない。須崎先生は、幸せでした。心から、そう思います。

 先生のお名前と、電話番号を書いたメモ用紙を、僕は多分、死ぬまで処分することはないでしょう。愛し、愛された親子と、そうでなかった親子。どちらもこの世の真実だということを、忘れたくはありません。

 先生が今、あらゆる心配事から守られて、静かにおやすみになっていることを願います。あの世で再会が叶うなら、どうか、もう一度、みんなで、園田くんも一緒に、先生の授業を受けられますように。それでは、また。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?