上村元のひとりごと その388:2992
こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。
人称を、型とみなせば、とても楽です。
自分を入れなくていいからです。
たとえ、私、が主語であろうとも、それが、純粋に型であれば、三人称と同じ。
書き手の内面をぶらすことなく、ストーリー展開に主力を注げる。
エンターテインメント小説の名手と呼ばれる方々は、ほぼ全員、人称を型とみなす天才。
器用なのです。
文章と、自分とを、完全に切り離すことができる。
書き手本人と密着した一人称は、とにかく、小さい。
何百ページにわたる、壮大な物語の受け皿には、とうてい、なれない。
それでも、何か、できないか。
書き手本人の一人称から出発しながら、大きなものにたどり着く、いわば、地球の穴掘りのようなことは、本当に、不可能なのか。
それを試みて、相応の成果を挙げたのが、村上春樹氏。
いわゆる、「壁抜け」の技術を開発されました。
書き手が、一人称で語られる主人公に寄り添って、主人公とともに、物語において、自我を解体し、また築き直すことによって、視点を変えられる。
型ではない、新しい人称形式が、誕生する。
そして、ある程度の数の物書きが、その技術を利用して、面白い物語を生み出すことができる。
素晴らしい発明です。
村上氏が、ノーベル文学賞を授与されるとしたら、ひとえに、人称変換技術としての「壁抜け」に対してであろうと、僕は踏んでいます。
じいいいっ。
ちらっ。
しゃっ。
しーん。
じいいいっ。
ちらっ。
しゃっ。
しーん。
じいいいっ。
…さっきから、MacBookを盾にして、じっとりと、ねっちりと、こちらをガン見しているのは、愛猫ミント。
なんの御用ですか。
僕が、にこやかに視線を向けると、しゃっ。
疾風のごとくに、MacBookの蓋の裏、顔をお隠しになる。
失礼いたしました。
僕がまた、画面に目を落とすと、おもむろに、じいいいっ。
ガン見なさって、おやめにならない。
エンドレス・視線合戦。
しかも、なんともおまぬけなことに、顔は、しっかりしまっているのに、大きなおしりが、MacBookからはみ出して、ちっともかくれんぼになっていない。
不器用なのです。
お姿ばればれにもかかわらず、こうして、根気よく付き合っている、飼い主ともども、型を自在に操ることからは、ほど遠い。
かといって、「壁抜け」に代わる新技術を開発するほどの、知恵も体力も持ち合わせていない。
どうする、元?
このまま、書き手本人の一人称しか使えないまま、小さく終わるの?
型でもない、技術でもない、新しい道は、どこに?
じいいいっ。
ちらっ。
しゃっ。
しーん。
じいいいっ。
…我が愛猫が熱愛するバンド、King Gnuの常田さんも、どちらかといえば、不器用のお仲間。
自分の目で見て、自分の耳で聞かなければ、納得できないタイプのクリエイターと、お見受けします。
型とか、物語とか、自分以外のものに、身を委ねられない。
三人称は、難しい。
しかし、三人称が使えなければ、一生、小物。
藝大出身とか、渋いイケメンとか、自分を売りにするより、他なくなる。
音楽家なのに、アイドル扱い。
それは、困る。
こうして、millennium paradeが、できました。
同性の幼なじみ、すなわち、自分を投影しやすい、井口さんを外して、外国の血を引く女の人、つまりは、同世代であるという以外には、自分との接点を見出しづらい、ermhoiさんを、ボーカルに起用することで。
常田さんは、一度、死にます。
「壁抜け」に相当する、自我の解体です。
そして、いくつも試作を繰り返した後、勝負に出ます。
「2992」です。
この曲に、常田さんは、ものすごく、精魂を傾けたと思います。
同時期に作られた、「三文小説」、「千両役者」、「FAMILIA」が、なんとなく、薄く感じられるくらい、曲作りという点では、文字通り、死力を投じた。
結果、負けた。
それは見事に、完膚なきまでに。
何に?
もちろん、自分に。
millennium paradeは、King Gnuを超えられないことを、我が身をもって、証明した。
というか、最初から、わかっていて、お作りになった。
膨大なトラックを使って、重厚に積み上げられたオーケストレーションも、彼方への飛翔を誘うような、澄明極まりないボーカルも。
井口さんの歌う、ちょっとすかすかの、「FAMILIA」には、かなわない。
じいいいっ。
ちらっ。
しゃっ。
しーん。
じいいいっ。
いいんです。
多少、おしりがはみ出していようとも。
そこに、自分があれば、それでいい。
愛する仲間がいれば、もっといい。
小さな自分のまま、うんと背伸びして、命果てるまで、戦うのです。それでは、また。
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