上村元のひとりごと その241:形
こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。
定型というものと、どう付き合ったらいいのか、未だにわかりません。
書くことだけをとってみても、例えば、小説。
登場人物がいて、ストーリーがあって、始まりと、終わりがある。
どれほどひねろうが、型というものが、確かにあり、それをマスターしないことには、小説家と名乗れない。
超一級の小説は、型を全く気にさせないけれど、それでもやはり、ないわけではない。どうしても、どこかで、型に合わせて、ねじ曲げなくてはならない。
むがー。
ベッドと、ベランダの窓との、細すぎる隙間にもぐり込もうとして、大きなおしりをつっかえさせ、なんで通れないんだ。ぶち切れるミントに、ため息をついて、抱き上げて、逆立つ青緑色の毛皮をなだめながら、それはね、むちゃだよ。一応、言い聞かせてみます。
詩や、短歌、俳句など、定型が明確に決まっているものは、もっと厳しくて、自由詩、自由律は、あるにはあるが、ピカソのキュビズムのようなもの。
基本の型を、消化しきったうえでの、自由なのです。
この、基本の型、すなわち、定型が、僕にとって、最大の難敵。
決まりごとを、ちっとも覚えられない。
守ろうとすると、阿諛追従になり、崩そうとすると、無駄に攻撃的になる。いつまで経っても、身に付かないまま。
人生の型なんて、それこそ、無理難題もいいところで、まともに就職して、十四年、勤め上げられたのが、嘘のよう。
勤め先の倒産により、フリーランス化を強いられたような気がしていましたが、実は、今の暮らしの方が、僕に合っているのかも。
大学を出て、就職して、恋をして、結婚して、子供を持って、孫を抱いて、退職して、伴侶を看取って、老いて、死ぬ。
…無理。
初めの二つだけで、力尽きてしまった。
腕の中、ぶんぶくむくれる、ぬいぐるみの猫が、かろうじて、連れ合いと呼べなくもないので、結婚は、一応、済ませたものと、思っていいのだろうか。
それでも、この人生、定型に則っているとは、誰もみなさないだろう。
うなだれて、ミントを抱えて、炬燵に戻り、ようやく機嫌を直して、みににに。てぃるるる。喉を鳴らす、ぽさぽさの毛皮を、撫でて整えます。
定型によって、ねじ曲げられるものとは、形です。
人も、物も、あらゆる存在には、固有の形があります。
固有の形を持つものを、存在している、と呼ぶのです。
定型は、無数にある形たちを、足し合わせ、混ぜ合わせ、平均をとったもの。
どこにも存在しないのです。
極めて抽象的な、人間に特有の、発明品。
どこにも存在しないものを、どうやって、きっちり身につけて、自在に扱えるというのか。
…もしかして、僕って、人間じゃない?
なんて、あらぬ疑いを抱いてしまうくらい、抽象思考が苦手なのです。
しかし、これでも、物書きの端くれ。
一切の抽象化なしに、人工の極みである文章を編もうなんて、恥知らずもいいところ。
なんでもいい。
小説でも、詩でも、戯曲でも、何か、型のあるものを書こう。
そうしないと、わけのわからないひとりごとを発するだけの、人間未満に終わってしまう。
そう思って、とりあえず、小説を、頑張って書いてみたり、したこともあったっけ。
にーのう。
すりすりと、それは可愛らしく、ほっぺたを僕の胸にすりつけて、おやつをねだるミントの、まん丸頭を撫でて、するめをかじらせてやり、にちにちにちにち。にちにちにちにち。重厚な咀嚼音を聞きながら、MacBookの蓋の上、かじりかけのりんごを見つめます。
りんごは、丸い。
丸いだけじゃ、つまらない。
ちょっと、欠かせてみよう。
と思って、Apple社の創業者たちは、このマークにたどり着いたのではない。
このマークが、現れたのです。
唐突に、そのままの形で、彼らの前に。
彼らの功績は、なんだ、かじりかけか。汚いな。とならずに、いいじゃないか、かじりかけ。面白いじゃないか。となった、受容度の高さです。
存在物から、型を作ることにではなく、存在物を、形として、この世に出す手伝いをすることに、全力を注ぎたい。
僕に親しい存在物は、言葉。
頭の中、それは色々な形で現れる、言葉という生き物たちを、日本語という道具を用いて、みんなの目に見えるようにする。
それが、僕の、できること。
すべきこと。
にちにちにちにち。にちにちにちにち。
真剣にするめと対峙する、チャレンジャーな愛猫を抱え直し、りんごのマークの埃を取って、そっと蓋を開きます。
死ぬまでに、いくつの言葉と出会えるか。
思うだけで、わくわくするので、物書きは、やめられません。それでは、また。
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