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上村元のひとりごと その28:海獣の子供

 こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。

 解雇通告を受けた後、しばらくぼんやりして、おもむろに床を這い、預金通帳を開きました。

 残高を、家賃、光熱費、おおよその食費を合わせた金額で割ると、少なくとも、五年分はある。

 これを、五年は生きられる、と取るか、五年しか生きられない、と取るかで、今後の行動が変わるような気がする。どちらを取るか?

 そんなことを言っている場合ではない。五年間も、無収入でいるつもりなのか。この預金額は、あくまで、元手と考えるべきで、これを土台に、わずかずつでも、積み立てていかなければ。どうやって?

 通帳を握ったまま、ここで暮らし始めた頃を思いました。

 編集室に近く、取材にも便利なこの部屋を斡旋してくれたのは、当時の編集長でした。面倒見がよく、朗らかで、事務手続きにも長けていたその人に、すっかり任せきりで、どのような条件での契約だったのか、ろくに書類も読まなかった。

 二年ごとの更新手続きも、形式的なもので、勤務先への在籍確認がなされていたのかすら、わからない。無職になったことを、大家に届け出るべきなのか。それとも、支払いさえ滞らなければ、次の仕事が見つかるまで、余計なことは言わずに済ませるべきなのか。

 疫病の流行という、国民共通の困難に由来する不運なので、大家だって、そう無下なことはしないはず。でも、失業状態が長引けば、当初の契約に反すると詰られて、最悪、退去を命じられる可能性もある。

 明日にでも、そうならないとは限らない。いつでも出られるように、身辺整理だけはしておこう。

 もやのかかったような頭で、そこまで考えて、力尽き、炬燵に上半身を投げ出して、本棚を見つめた。

 大型でもなく、小型でもない、二つの棚に、高価でもなく、安価でもない、書籍が、大量でもなく、少量でもなく、並んでいる。通帳の残高と同じように、つまりは、僕の器を反映したように。

 ほとんどが、活字書籍のなか、ゴッホの画集と、東京の地図帳、そして、『海獣の子供』だけが、ビジュアル要員です。混乱した時は、活字を追いたくない。分厚い漫画本に、指を伸ばしました。

 長らく拒絶していたせいで、僕の漫画リテラシーは、極度に低い。イラストと、台詞を、同時に追いかけることができなくて、片方ずつ、合計二回、初めから読まなくては、読んだことにならない。

 アニメ映画化されたとの売り文句とともに、書店の店頭に、平積みになっていた全五冊を、中身も知らずに抱えて帰った理由は、ひとえに、顔、でした。

 『海獣の子供』の登場人物たちは、みんな、あまり表情を変えない。大笑いしたり、泣きわめいたり、無駄に愛想を振りまくことはない。

 その様子は、この作品の白眉である、海洋生物たちの華麗な大乱舞と、しかし、奇妙に釣り合っている。

 生き物なのだ。人間も、魚も、神秘のクジラも。水か、空気か、両方か、それぞれの環境に適応し、進化し、他の命を食べ、種の命を残し、自分も食われて死んでいく。

 それでもなお、登場人物たちは、全員、己を苛む芳しくない事情を、顔に滲ませている。

 主人公の琉花は、周囲に馴染めず、彼女の両親は、愛の伝え方を知らない。海洋研究員のジムは、満たされない孤独によって、天才科学者アングラードは、他人を顧みられない無神経さによって、各々の皮膚を、すなわち、外界との唯一の接触点を、修復不能なまでに傷つける。

 誰もが、海に幻想を託し、理想を押しつける。人間の形をしたジュゴンの子供、空と海を、自分の理解の範疇に押し込めようとして、失敗し、彼らを永遠に失った、と誤解して嘆く。

 若い琉花だけが、老婆デデと同じ結論に、言葉なく達する。自然界にあっては、生も、死も、同じこと。でも、人間は、人間の世界で、生きていかなくてはならない。拒むことなく、媚びることなく、しなやかに、イルカのように。

 通帳と、漫画を、炬燵に置いて、どちらも僕だ、と呟く。

 所詮、僕は僕なのです。たとえ、使い切れない金額を手にしようが、すらすらと漫画を読みこなせる能力を獲得しようが、それによって、僕固有の葛藤に、解決がつくわけではない。それなら、あくせくと稼ごうとしなくても、他人と同じように読もうとしなくても、いいじゃないか。

 決まったような、決まらなかったような、実に僕らしい、中途半端に落ち着いたので、とりあえず、これから、ご飯を食べます。それでは、また。

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