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上村元のひとりごと その115:迷子

 こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。

 もしかしたら、ミントは、迷子だったのかもしれない。

 パソコンデスクの椅子の上、背もたれに向かって、じぇりじぇり、じぇりじぇり。一心に爪を研ぐ、青緑色の後ろ姿を見上げて、ふと思いました。

 ぬいぐるみの猫だけれど、ミントは、歩ける。何かのはずみに、もともと飼われていた家から出てしまって、道路をさまよい、僕の住んでいるアパートのゴミ捨て場付近まで来たところで、にーのう。お腹が空いて、動けなくなった。

 そこへ、アパートの住人の方が通りかかり、なんだ、このぬいぐるみは。不法投棄か。許せない。ゴミは、ゴミ箱へ。ぽい、がしゃん、かちっ。ゴミ捨て場に放り込んで、鍵を掛けた。そこへ、僕が、ゴミ出しに現れた。

 ずっと、このアパートの住人に、ミントは捨てられたのだ、と思い込んでいたけれど、いちがいに、そうとも言い切れない可能性が出てきました。

 とにかく、捨てられていたのは、間違いない。でも、そこに至るまでの経緯には、それこそ、星の数ほどの選択肢があって、日本語をしゃべらないミントから、直接聞き出すことがかなわない以上、僕には、正解を知ることはできない。

 寄りかかっていたベッドから、身体を起こし、炬燵の前、座布団の上で、あぐらをかき直し、じぇりじぇり、じぇりじぇり。規則正しい擦過音をBGMに、頰杖で考えます。

 いつの間にか、空気に秋が混じるようになった。クーラーの設定温度も、真夏のままでは寒く感じて、一度上げた。

 去年の今頃は、疫病のえの字もなくて、半官半民の小さな雑誌社に、ライターとして籍を置き、飲食店の取材をして、宣伝記事を書いていた。定年を迎えるまで、そこで働くのだと信じていた。何の疑いもなく。

 収入も、激減した、どころではない。ゼロだ。いや、ゼロだった。数日前、知り合いのカメラマンである、伊勢さんと、お仲間の集まりから、原稿料が振り込まれるまでは。それでも、かつての、何十分の一だろう。数えたくはないけれど、それが、事実。

 迷子になってしまった。ミントと同じように、僕も、広い社会で、会社からはぐれて、こうして、平日の午後、あてどない追憶にふけっている。

 永遠に、親のところには戻れない。そもそも、会社は、親ではない。ミントも、元いたところに、帰る気はなさそうだ。少し前に、帰りたいの、と訊いたら、ものすごい勢いでかじられたっけ。

 今なら、その気持ちが、わかる。確かに、帰りたくない。たとえ、以前の収入を確保するよ、と言われても、もはや、今さら。

 じぇりじぇり、じぇりじぇり、を終えて、すっきりしたミントが、振り向いて、ほわま、ほわま。抱っこをせがみます。

 微笑んで、腕を伸ばし、ぽさぽさした毛皮を抱き取って、胸にぎゅうと抱きしめます。

 この部屋を、買い取ることができない以上、いつか、ここからも、出ていかなくてはならない。

 ミントは、ついてきてくれるだろうか。猫は部屋につく、というけれど、まあ、置いていくわけにはいかないから、無理にでも、連れて行くしかないが、それは、ミントにとって、幸せだろうか。

 ねえ、ミント。

 あーお。

 幸せ?

 めやーん。

 みににに、と笑い、てぃるるる、と喉を鳴らし、膝の上、ぽたぽたとしっぽを振るミントに、安心して、両手のひらを見下ろします。

 働いても、暮らしが楽にならない。という事実と、じっと手を見る。という行為の間に、啄木は、何を込めたのか。

 接続詞で置き換えるとしたら、だから、か。それでも、か。やっぱり、か。とにかく、そこには、深い切れ目がある。句の切れ目であり、発想の切れ目が。

 物書きは、身体がないと、書けません。

 頭の中だけで、組み立てた文章は、文章ではない。少なくとも、僕の文章ではない。誰のものでもない言葉を、僕のものにするには、僕の手を、通さなければならない。とりたてて、美しくはないが、それでも、実に働き者の、この両手を。

 むがー。いきなり腹を立てて、べちっ。ミントが、前脚で、頰をはたいてきました。抱っこの仕方が、不満だったらしい。慌てて、しっかり抱き直します。

 ぬふーん。すぐに機嫌を直すのが、ミントのいいところで、僕の肩にのっちりとほっぺたを垂らし、やがて、ぴーぷす。ぴーぷす。安眠です。

 同じことの繰り返しのようでいて、毎日は、その都度まるで違います。

 今日のミントを抱っこしながら、今日の僕は、今日だか明日だか、もっと先だかに、読んでくださる読者に向けて、僕の文章を送ります。文章は、時を超えられるのです。過去を変えることだって、あるいは。

 ライターだった僕よ、心配しないで。こうして、物書きになった僕が、ちゃんと生きている。書いている。どうぞ、ミントみたいに、この胸で、ぐっすり眠ってください。それでは、また。

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