見出し画像

上村元のひとりごと その172:弦

 こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。

 大きな別れの後は、身体に力が入らなくなるものです。

 原稿だけは、なんとか書き上げましたが、その他のことは、ほとんど、手につかない。じっと、炬燵にうずくまり、ぼんやりと、本棚を見つめる。きれいに埋まってしまっているけれど、昨日まで、確かにあった物たちの残像を。

 どうして、こんなことになってしまったのか。

 誰のせいでもないと、慰めたい気もするけれど、ここは、やはり、自分のせいだと言ってしまおう。そうでないと、真実に迫れないから。

 そもそも、僕は、チェロが好きでした。

 母親にねだって、チェロと名のつくCDは、手に入る限り買ってもらい、数少ないそれらを、繰り返し聴き続け、だんだん、弦楽四重奏とか、バイオリン協奏曲とか、チェロ以外の弦楽器も追いかけるようになって、しまいには、ギターを伴奏とする歌曲とか、民謡とか、ロックとか、広がって聴くようになったのです。

 覚えやすいメロディーと、それを歌う歌手本人の魅力を売りにする、J-Popとの接点は、実は、あまりなかったのに、よりによって、ポップスターのファンを自称してしまったことが、今回の悲しみの、根元にある勘違いだった。

 とてとてとてとて。ちりんちりん。きゅーにゅ、きゅーにゅ。

 落ち込む僕にはお構いなしに、ミントが、元気に歩いてきて、ぽんぽん。前脚で、iPadを叩いて、YouTubeの視聴を促します。

 泣きたいのをこらえて、いや、ちょっと泣いているのをごまかして、無理に微笑み、スイッチを入れ、何につけてもぶれないミントのいちおし、King Gnuを再生です。

 チェロが好きだ、弦が好きだ。素直な思いから、いつの間にか、自分を逸らしてしまったものは、何か。

 目です。

 覚えていないけれど、きっと、僕は、ある日、ふと、自分で自分を見たのでしょう。チェロが好きだと言いながら、チェロに触ったこともなく、ドレミも弾けない自分の姿を。

 単に見る、というのは、人間にとって、とても難しいことで、見てしまったからには、そこに、なんらかの感想なり、反応なり、付け加えずには気が済まない。

 見た僕は、焦って、そうだよな。弾けもしないのに、チェロが好きだなんて、恥ずかしいよな。よし、やめよう。今日から僕は、チェロなんか聴かない。なかったことにする。

 独り合点の末、真の好みを封印して、日々を過ごし、そして、星野源さんの音楽に出会った。

 同じ発音の名前、同じ世代、自分もそうなれそう、という親しみやすさに飛びついて、おかしな趣味嗜好を覆い隠すふたにした。利用してしまった。

 でも、チェロ好き、弦好きは、戻ってきた。ミントを通して、常田さんの姿で、確かに、今、僕のもとへ。

 こんなにも、自分の好みにぴったりの表現者がいることは、喜びを超えて、恐ろしさすら感じます。

 まるで、夢見るあまり、妄想的に作り出してしまった、架空のアイドルのよう。あまりに怖いので、ファンです、とは、気軽に名乗れない。ミントが熱愛していなかったら、多分、聴くこともなかった。

 一曲が終わって、次は、僕の選ぶ番。

 いつもなら、興味のない音楽に変わるので、注意散漫なミントですが、今日は、なんと、King Gnuが続いたので、むしゃん。小さな黒い目を見開いて、僕を見上げ、めやーん。最大級の甘えた声で、ひと鳴きし、ありがとう。嬉しい。すりすりと、ほっぺたを僕の胸にすり寄せます。

 ありがとう、ミント。僕も、嬉しい。

 単に見る、よりは、単に聴く、という方が、人間には、やりやすい。

 好きをむき出しにしていられた、子供の頃みたいに、もう一度、僕は、聴くことを始めたい。

 ファンだとか、そういう、社会的な態度表明は脇に置いて、ただただ、音楽に身を任せたい。ミントに倣って、毎日聴いても、全く飽きない曲を見つけて、自分の耳に忠実に、暇さえあれば、聴いていたい。

 馬鹿に見えても、構わない。だって、もう、根っから馬鹿であることが、判明したのだもの。今さら、恥ずかしがって、何になる。

 泣いて、笑って、生きていこう。

 そして、書くのだ。文字と音声の、目と耳の、優雅な両立を目指すのだ。

 チェロが弾けないチェロ好きも、存在していいのだと、小さく、しかし、確かに言い切りましょう。同じ問題に苦しむ誰かのために、そして、何より、自分のために。それでは、また。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?