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千文小説 その382:比類

 こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。

 悩んだ末に、Appleのギフトカードを、一万円分購入し。

 アカウントにチャージして、さあ、どうぞ。

 これでしばらく、読み放題、聴き放題。

 残高を気にせず、好きなだけ、ダウンロードしてください。

 むっきゃー。

 げすげす。

 べむべむ。

 自分より巨大な、黄色いねずみを、殴る蹴る、やりたい放題の愛猫を見習って、自分に、そのように、伝えたところ。

 いいの?

 わーい。

 わーい。

 喜んで、さっそく、シリーズ物のコミックエッセイの一巻目を、購入しました。

 僕は、マンガを読むのが、大変、遅い。

 文字と絵を、同時に処理することができないらしく、まず、文字を読む。

 しかも、頭の中、台詞を声にして。

 ひと通り、それが終わって初めて、絵を見る。

 コマ割りはこうなっていて、ここに手書きの文字が入り、全体のハイライトはここで、等、構成を分析しながら、眺める。

 …そりゃ、なかなか、進まないわけだ。

 一話読むのに、数十分、いわんや、一冊をや。

 というわけで、コミックエッセイの単行本が、十冊近く買える金額を用意しておけば、当座、再チャージの必要はない。

 安心して、作品世界に没頭できる。

 うぬんきゃー。

 あぎあぎ。

 ごすごす。

 殴る蹴るの次は、かじるはたく。

 実に気の毒なねずみに頭を下げて、炬燵に向き直り、いつの間にか、電子書籍リーダーになっているiPadを、手に取ります。

 数年前まで、僕は、飲食店のPR記事を雑誌に書く、フードライターでした。

 すっかり引きこもりになった今では、とても信じられませんが、多い日で、一日に五軒、取材で食べ回っていた。

 名残は、どこにもないの?

 あの日の君は、消えてなくなってしまったの?

 …おおよそは、そうだね。

 でも、時々、顔を出すものがあり。

 それは、たいてい、美味しい物が食べたい。

 あるいは、美味しい物を、食べている人を見たい。

 そのいずれかの形をとって、浮いてきます。

 ただ、僕は、胃腸が強くない。

 実際に食べるよりも、絵に描いた食べ物を見ている方が、美味しい物欲が満たされる。

 なので、ぜひ、電子書籍で、美味しい物の特集を。

 読むと、ほっこり、安心するようなラインナップを。

 揃えようと、あれこれ、渡り歩きました。

 敬愛するファッションブランド、ミナペルホネンのデザイナーの、皆川明氏のレシピ本も、とても素敵だった。

 絵を描く方なので、出来上がりの画の完成度が高く、見ているだけで、美術鑑賞になる。

 …というのは、しかし、料理という観点からは、どうなのか?

 ぶっちゃけ、これ、美味しい?

 なんて、つい、下品なことを申し上げたくなるくらい、僕の普段の食生活とは、かけ離れ過ぎたメニュー。

 もう少し、和食寄り、かつ、日常編みたいな本はないかな…。

 チーズもワインも生魚も苦手な僕は、せっせと探して、そして、見つけました。

 漫画家、きくち正太氏の、『あたりまえのぜひたく。』シリーズです。

 ぶるむふーん。

 どるむふーん。

 ゆらゆら。

 ぽたぽた。

 ねずみのお腹にべったり乗って、揺りかごのように揺られつつ、短いしっぽを揺らす愛猫が、落っこちないよう、横目で見守り。

 iPadの画面上、直線と曲線が美しいバランスを描く、湯気の立つ、できたての家庭料理を見つめます。

 正確に言えば、このシリーズは、レシピ本ではない。

 地方の農家をご実家に持ち、かつ、作画スタッフのまかないも兼ねた食事を供しなくてはならないという、やや特殊な条件があるため、作中で拵えられるメニューの分量は、半端ない。

 ジャガイモを十個使ったポテトサラダを、直径27cmの大鉢茶碗蒸しを、ぬいぐるみの猫と二人暮らしの、ひ弱な都会育ちの一人っ子に再現できるか、と言われたら。

 …すみません。

 無理です。

 想像しただけで、胃が攣りそうな我が身には、とてもとても。

 それでも、ここには、何かがある。

 昭和は良かったみたいな、ノスタルジーでもなく、単なる料理の腕自慢でもなく(元フードライターとして、断言しましょう。きくち氏も、奥様も、間違いなく、店が開けます)。

 ひっくるめて言えば、愛。

 どんなに暗い夜でも、食べることを、生きることを、嫌になったりするはずのない、まっすぐな健全さ。

 ぴーぷす、ぴーぷす。

 抱き合って、寝落ちした二匹に微笑んで、立ち上がり。

 ひよこの毛布で、仲良しの、猫とねずみをくるみます。

 酒の飲めない僕でも、ぜひたくシリーズに繰り返し描かれる、酒宴のシーンは、見ていて飽きません。

 飲むこと自体が、目的ではないからです。

 もっと言えば、食べること自体も。

 生きるのだ、と思わなくても生きていく、比類なき正の走光性を、心身に染み込ませたいです。それでは、また。

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