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上村元のひとりごと その26:ワールズエンド・ダンスホール

 こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。

 身体を動かすことが苦手で、とりわけ、踊りは最悪です。

 ラジオ体操は、まだついていけました。しかし、ソーラン節になると、途端に、でくのぼうになり、創作ダンスに至っては、言葉通り、手も足も出ず、暗黒舞踏のごとく、体育館の床を、ぴくぴくと這い回るばかりでした。

 小学校の林間学校で、キャンプファイヤーを囲んで、マイムマイムを踊らされた時は、何の拷問か、と気が遠くなった。幸い、相手をしてくれた女の子は、みんな寛大で、僕が何度足を踏もうが、入れなくてもいい回転を入れようが、引きつった笑顔でごまかしてくれたけれど、かえって心が裂かれ、二度とフォークダンスなどしまい、と誓って、今に至ります。

 反動で、ダンサーという職業に憧れがあり、暇さえあれば、YouTubeを検索し、プロの踊り手の方々の、とても僕と同じ人間とは思えない神業を、飽きることなく眺めていました。

 YouTubeのおすすめリストは、時に粋な計らいをするもので、この間、画面をスクロールしていたら、丸い眼鏡をかけた、前髪の長い、ギターを構えた男性の立ち姿が目に止まりました。

 星野源さんにも入れ込んでいるせいで、僕へのおすすめには、J-POPの曲もしばしば混じり、気になったものは、閲覧することもありますが、その時は、ダンスが観たかったので、これは違うだろう、通り過ぎようとしました。

 でも、何かが、僕を引いた。

 もう一度、よく見ると、曲名に、ダンスという言葉が入っている。しかも、ワールズエンド、すなわち、世界の終わり、も一緒に。

 僕にとって、自分が踊らなくてはならない状況というものは、大げさではなく、世界の終わりを意味した。もしかしたら、この人も、ものすごくダンスが苦手なのかもしれない。踊らなくてはいけないなら、むしろ死にたい、それくらいの覚悟をもって、この曲を作ったのかもしれない。聴いてみよう。

 大変笑止な勘違いのもと、初めて聴いたその曲は、しかし、別の意味で、僕の胸を打った。

 ライブバージョンと、ボーカロイドバージョン、どちらも繰り返し再生し、その都度、きりきりと、切なさに身をよじりました。歌い手が、既に物故されているらしいことも、さらに痛みに輪をかけた。

 透明な目をして、その人は、とても高いところに立ち、雲のたなびく地上を見下ろしています。

 しかし、同時に、その人は、乾いた地面に横たわり、自分が飢えていることも忘れるくらい、飢えて、痩せ衰え、何も映さない目で、空を見上げています。

 その人にとって、もはや、高いと低いは、同じものだった。中間という情けは、世界に存在せず、そもそも、世界自体が終わり果てていて、これ以上、何も変わることはなさそうだった。

 恐ろしく、賢い人だったのだと思います。同時に、泣けてくるくらい、優しい人だったのだと思います。

 本当は、ボーカロイドなんていらないほど、歌が上手かったのに、それじゃボーカロイドに悪いから、と、自分の声で歌う時は、あえて音痴なふりをして、イカれた感じを装って、外し気味に歌っていた。証拠なんてない、でも、きっとそう。

 最も高く、最も低い、その場所から見える風景、それは、ああ、なんてきれいな眺めだろう。笑っちゃうね。悲しいね。それももう、やっぱり、同じだね。

 とても身体が軽いんだ。びっくりするくらいに。くるくる回って、ふらっと消えちゃえるかも。でも、それじゃ君に悪いよね。

 一緒に踊ろうか。せめて、この曲が終わるまで。僕も、君も、同じなんだけど、そして、どちらももういないんだけど、まあ、いいじゃないか。

 君の代わりに、僕が行くよ。どっちでも、同じだからね。じゃあね、お元気で。さよなら。

 wowakaさん、遅すぎたことはわかっている。それでも、僕は、あなたに言いたい。そんなところに、いちゃ駄目だ、と。

 肉体を持つ喜びを、与えてくれた神への感謝を、同胞への限りない愛を込めて、ダンスは踊られるべきなのだ。何でも頭で解決して、全部、分解した気になって、ばらばらの、端と端をくっつけて、それで終わりと思っちゃ駄目だ。

 今からでも、間に合うはず。あなたにとって、この世も、あの世も同じなら、どうか、そこから、飛び降りて、あるいは、立ち上がって、新しい身体で、生まれ変わってください。今度こそ、一緒に踊りましょう。下手っぴでも、みっともなくても、手に手を取って、足並み揃えて。

 詳しい事情も知らないまま、想像を書きつけるご無礼を、ご遺族の方、ファンの方に、深くお詫びいたします。どうか、この文章が、墓前を彩るささやかな花束になりますように。それでは、また。

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