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上村元のひとりごと その120:異邦人

 こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。

 この頃、夜中に一回、必ず目を覚まします。

 たいてい、ものすごく息苦しい。顔全体がふさがれている時もあれば、喉一面が締めつけられている時もある。ぷはっと息を吹き返すのと、意識が戻るのは、ほぼ同時で、身体に悪いこと、このうえない。

 原因は、枕元でのんきに、ぴーぷす、ぴーぷす。元気な寝息を立てている、青緑色のかたまり。ミントです。

 壁と枕の間に、西武ライオンズのバスタオルにくるんで寝かせるのですが、寝相がよろしくなく、すぐにのってりと寝返りを打って、僕の顔にしなだれてくる。それも、ただ垂れてくるのではなく、確固たる意志を持って、ぎゅうとしがみついてくる。熟睡しながら。

 何度か、足元にこっそり移動させてみたものの、いつの間にか、また頭の周辺に戻っている。そして、しがみつく。顔に、首に。お願い、胸とかにして。

 いつか、本当に息が止まるんじゃないか。思ってはいても、どうしようもない。そうなったら、そうなったで、運命だとあきらめるしかない。

 というか、死んでいたら、あきらめるも何もない。ぬいぐるみに窒息させられた男として、ギネスブックに載せてもらえるかもしれない。それくらいが、残された希望。

 ゴミ捨て場から、どうしてミントを連れて来たのか。考える時、思い浮かぶのは、太陽のせいだ、の一言。『異邦人』です。

 どうしてあんなことをしたのかわからない、という瞬間は、どなたにもあるかと思います。

 冷たい雨の夕方、ゴミの回収箱の蓋を開けて、濡れそぼったミントと目が合った時、僕の手は、反射的に動いた。重たい、不審なぬいぐるみを、速やかに抱き上げた。なんのためらいもなく。

 気がついたら、そうしていた、としか言いようがない。うだる夏の日中、海辺の岩陰で、他民族の男に向かって引き金を引いた、ムルソーのように。

 ムルソーの特異な点は、自己弁護を一切しなかったことにあります。

 通常、自分のことは、自分が最もよくわかっている。したがって、法廷で、なぜそのようなことをしたのか、弁明できるし、しなければならない。正当な理由さえあれば、それがある程度、理にかなっていれば、ムルソーは、死刑にならずに済んだ。自分を守ることができた。

 でも、ムルソーには、守るべき自分がなかった。

 正気を失わせるような、厳しい光のもと、引き金を引いたのは、ムルソーではなかった。人を殺すことによって、自分も殺されたい。破滅的とも言える衝動を、ムルソーは、自分のものとして認識しなかった。

 異邦人は、ムルソーのなかにいたのです。

 まぶしい太陽に照らされて、それは、不意に現れた。確かにムルソーのものなのに、もはやムルソーのものではない何かが、気の毒な他民族を巻き添えに、一瞬だけ、出てきた。

 望みを果たして、それは去りました。

 残されたムルソーは、自分自身でありながら、自分自身ではないそれの、責任を取って、独房に入れられる。死刑が執行されるまでの間、もう二度とは出現しないであろうそれと、どう折り合いをつけるか。考え続けて、ついに、世界の優しい無関心に出会う。

 ぴーぷす、ぴーぷす。押しのけても、押しのけても、ぐいぐいせり寄ってきて、僕の首と枕の間に突っ込もうとするミントは、寝たいから、寝る。寄りたいから、寄る。単純な行動原理に、それのつけ入る隙はない。

 小さい頃、僕は、猫が飼いたかった。共働き家庭の一人っ子で、友達もうまくできなくて、ずっと、寂しくてたまらなかった。

 叶わなかった強い願いが、数十年の時を経て、あの日、ゴミ捨て場に現れた。僕は、確かに、受け取った。かつて僕のものだったが、もはや僕のものとは呼べないそれを、この手に引き受けた。

 タイマーがとっくに切れたエアコンの真下、連日の熱帯夜に、迫りくるミントとぴったり寄り添って、寝苦しい頭でぼんやり考える僕に、世界は、特に何も言いません。四十歳も近くなって、ぬいぐるみと添い寝なんて、愚かの極みとか、断罪したりはしない。

 ひたすら生を全うしようとする自然の理に反して、どうしても、太陽のせいにしてまでも、死を求めてしまうムルソーのことも、世界は、裁かなかった。殺したいなら、殺せばいい。死にたいなら、死ねばいい。人間には決してできない深い赦しを、言葉ではなく、存在で伝えてくれた。

 こうして、ムルソーは救われ、『異邦人』は書き終えられました。

 ミントとともに、ゴミ捨て場から始まった、僕自身の物語を、僕は、果たして、結末まで持っていけるか。というか、結末は、どこなのか。まだまだ、模索は続きます。それでは、また。

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