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上村元のひとりごと その80:キーボード

 こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。

 つるんぺ、ぷるんぺ、と、ミントが顔を洗っています。いつもの通り、鼻だけをこすっています。

 右前脚で、つるんぺ。左前脚で、ぷるんぺ。器用です。両利きなのか。

 感心しながら、僕は、クリーナークロスで、MacBookのキーボードを磨きます。もちろん、右手だけで。

 たまには、左手も使わないと、とクロスを持ち替えてみるのですが、駄目です。まるでうまく使えない。

 キーボードでの入力は、両手で行いますが、習ったというよりは、必要にかられて、見よう見まねで身につけたので、未だに、正しい運指なのかどうか、わからない。もしかしたら、無自覚に、右手ばかり使っているかもしれない。

 キーは、黒くて、指の脂が目立ちます。おおよそ、どこに指が当たるのか、自然と決まってくるらしく、いつも同じところが汚れます。長いキーは、特に、端っこばかり色が変わったりして、ああ、いつも、ここに指がぶつかるんだな、と、しみじみしながら拭き取ります。

 何年前だったか、打ち合わせのため、コーヒーショップで待っていたところ、先方から、電車の事故で遅れる、との連絡が入り、あいにく、手持ちの文庫などもなく、ぼんやりと周囲を眺めていた時でした。

 すぐ隣のテーブルに(当時はまだ、ソーシャルディスタンス、という概念は一般的ではなかった)、女の人が腰掛けて、一心に、ノートパソコンに文字を入力していました。

 淡いグレーのパンツスーツに、白いシャツ、控えめな化粧をした、四十代半ばくらいの人でした。小ぶりなパールが、耳たぶに揺れていて、真珠の耳飾りの婦人だな、と思ったことを覚えています。

 華奢な指先に、塗っているかいないか、わからないくらいのネイルを施して、軽やかにキーを叩いている。どこのメーカーのパソコンだろう、と、画面を見るのは失礼に当たるので、なるべく見ないようにして、キーボードに目をやって、どきっとした。

 ものすごい埃。染み。髪の毛の切れ端。

 思わず、顔を上げ、ちらりと横顔をうかがいました。端正な、美人と言っていい顔立ちで、切れ長の瞳の、白目が照明に輝いています。まさか、この人の、私物ではなさそうだが……。

 百歩譲って、会社の備品を借りているのだとしても、なぜ、拭かない。時折、飲みかけのコーヒーカップを持ち上げ、食べかけのサンドイッチを口に運ぶのは、ある種の迫力を感じさせるまでに汚れきったキーボードを触る、同じ指なのに。気にならないのか。こんなにも、身だしなみに気を遣っていそうな人なのに。

 何とも言えない居心地の悪さを持て余し、しかし、離席するわけにもいかず、なめらかに響くキータッチ音を聴き続けるうち、そうか、他人と一緒に暮らすというのは、こういうことなのか、と、脈絡なく悟りました。

 ぎょっとするようなギャップを、毎日、何かしら目の当たりにして、そのたびに黙って飲み込み、当たり前を維持していく。一日、二日、一週間、一ヶ月。半年、一年、五年、十年。どれだけの微細な衝撃を積み重ねたか、それが、二人の関係を深め、なくてはならないものに育て上げる、隅の親石。

 つるんぺ、ぷるんぺ、が完了して、ミントは、すっきり。

 ほわま、ほわま、とせがむので、腕だけで抱き上げて、膝に乗せてやると、気持ちよさそうに、ほっぺたをのっちりと垂らします。

 クロスを置いて、ノンアルコールのウェットティッシュで手を拭いて、湿気でもつれやすい青緑色の毛皮を、指先でそっと梳いてやると、ミントはくすぐったそうに、めやーん。快感の意を示します。

 僕が、いつか、人間と暮らす日は来るのでしょうか。

 できれば、愛する女の人がいいけれど、気の合う男かもしれない。複数かもしれない。その辺は、神様の裁量に、お任せするより他にない。

 でも、ミントを粗末にするような人とは、絶対、無理。そのギャップだけは、何があっても、埋めたくない。

 蓋を開けると、自動で電源が入るのが、MacBookのいいところですが、拭き掃除のたびに、うっかりキーを押してしまって、その都度電源が入ってしまうのが、難点でもあります。

 いつか、心ゆくまでキーを磨きたいのですが、どうすれば、押しても電源が入らないようになるのでしょう。ご存知の方がいらしたら、ぜひ教えてください。それでは、また。

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