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上村元のひとりごと その517:青春

 こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。

 羽海野チカ氏の『3月のライオン』16巻が発売になり、電子版で、喜んで読んでいます。

 主人公の桐山君と、ヒロインのひなたさんが、ついに、そういう仲になり(ネタバレ注意で、これ以上は…)、くたびれたおじさんとしては、いや、若いね。

 頰を赤らめつつ、飛ばし読みです。

 ぶっふーん。

 ぐりぐり。

 いててて。

 みししし。

 青緑色の毛皮の、愛猫ミントが、色気もなく、容赦もなく、背中をどついてきます。

 羽海野氏と、僕は、厳密に言うと、表現の方向性が違います。

 読んでいて、大変、うらやましい。

 いいな。

 僕も、こうだったらな。

 ため息混じりに、つい、夢を見てしまうのは、技術的な話ではない。

 そもそも、僕は、漫画家ではない。

 僕になくて、彼女にあるもの。

 あるいは、僕にあって、彼女にないもの。

 比較です。

 特定の誰かとの対比による、自分像が、くっきりと、胸に影を落とすなら、それは、負け。

 一生、消すことはできない。

 僕には、ある。

 彼女には、ない。

 それだけ。

 ぐにーも。

 よじよじ。

 ぶふーん。

 ずっしり。

 …重いよ、ミント。

 iPhoneと、MacBook、どっちで読もう。

 悩んだ末、バッテリー容量を鑑みて、パソコンにしたのですが、この通り、愛猫に襲われて、いまひとつ、集中できない。

 かくなるうえは、執筆のふりをして、スマホに向かうしかないか。

 親の目を盗んで、教科書に雑誌を隠す、中学生の気分で、ご機嫌な愛猫を、よいしょ。

 両腕を回して、おんぶです。

 ないものは、元から、ない。

 僕がどれだけ若返っても、あるいは、年を重ねても、初々しい若者のラブストーリーと、それを見守る大人たちの眼差しは、決して書けません。

 年齢では、ないのです。

 誰でもないから、誰にでもなれる。

 これが、ポップというものの核心で、これさえあれば、表現者として、無敵。

 青春と大衆は、同じものの、表と裏なのです。

 ちなみに、なぜ、僕が、売れない物書きなのかというと、このポップさが、ゼロだから。

 物心ついた時から、僕は、誰でもなくはなかった。

 常に、立派な父の、いや、立派だと信じていた父の、小さなできそこないだった。

 三つ子の魂は、恐ろしく、父亡き今も、多分、死ぬまで、僕は、ポップでいられない。

 仕方ないことだが、やはり、うらやましい。

 『3月のライオン』みたいな、群像劇が、書けたらな。

 いつまでも、ひとりごとで、情けない。

 世界には、自分しかいないなんて、寂しすぎるだろう。

 びひひひ。

 あぐあぐ。

 いててて。

 むきゃきゃきゃ。

 ずり上がったミントが、最近恒例、秘儀・頭頂部かじり、を繰り出してきて、毛根を、がぶがぶやられて、目に、涙。

 良かった、ごまかせて。

 悲しみを噛みしめつつ、正面の壁、ドーベルマンの肖像を見つめます。

 ありがたいことに、青春ゼロの表現者にも、仲間がいる。

 そして、羽海野氏をはじめ、キラキラポップな作者たちも、決して、敵ではない。

 自分は、自分を出られないが、その外に、明らかに、他者がいる。

 そのことだけは、この先も、忘れないようにしたいです。それでは、また。

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