上村元のひとりごと その231:夫婦
こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。
いいのか?
本当に、それで、いいのか?
お前といる限り、その猫は、泣いて暮らすことになるぞ。
それでも、いいんだな? 愛する者を、不幸にしても?
喉元すれすれ、顎を持ち上げるように、大刀の切先が、突きつけられています。
刃物は、金属なので、とても冷たい。触れていなくとも、気配だけで、体温が、しんしんと下がります。
ともすれば、身を引きたくなる本能をなだめながら、腕の中、震えるミントを見下ろします。
にゅー…
痛くてつらい時の鳴き声で、ミントは、ぽろぽろ。涙をこぼしています。
どうやら、僕のせいらしい。
はっきりとは見えないけれど、僕に刀を突きつけている、この相手に、ミントを渡せば、治療なり、世話なり、何不自由ない生活が送れるらしい。
悪意からでは、ないようです。
どちらかと言えば、親切に近い、申し出のよう。
そのわりには、簡単に刃物を振りかざすものだ。うかつに抜いてはいけないと、師匠に教わらなかったのか。
それとも、こいつは、ただのチンピラで、抜刀の心得もなく、ただ、お飾りで佩いているだけなのか。
確かに、切先も巨大な、新々刀。真の得手が、使うようなものではない。
それでも、刀を携している以上、同志ではある。
礼は尽くさねばならない。ミントを渡せない、その理由を、言挙げしなければ、面目が廃る。
姿勢を正し、泣き続けるミントを抱きしめ、静かに言います。
この猫は、僕の妻です。
縁あって、一緒になろうと誓ったものを、どうして、たやすく放り出せましょうか。
この猫が、世を去るまで、僕は、責任を持って、そばにいます。
僕が嫌になって、出て行くのは、猫が決めること。見ず知らずのあなたに、とやかく言われる筋合いはない。
どうぞ、お引き取りを。
さもなくば、あなたの首が飛ぶことになるが、それで、本当に、いいのか?
はっと目を開けると、部屋は、まだ暗い。
心臓がばくばくして、息が切れ、冷や汗をかいています。
ミント。
思わず、手を持ち上げ、いつものように、べったりと、しっかりと、顔面にしがみついている、青緑色の、ぽさぽさした毛皮に、手のひらを当てます。
ぴーぷす、ぴーぷす。
実に平和な、寝息です。
ほっとして、深く息を吐き、もう一度、目を閉じて、落ち着くまで、闇の中、呆然と、さっきの夢を思います。
ミントは、僕の妻。
そんなふうに思ったことは、一度もありませんが、しかし、そうだと考えるならば、何もかも、しっくりいく。
出会って、一緒に暮らして、半年。
さまざまなことを、分け合ってきました。
曲がりなりにも、キスをして、抱き合って、やきもちを焼いて、恋人みたいな時期もあった。
仕事がうまくいかなくて、どん底まで落ち込み、ちょっと隙間風が吹いた時期もあった。
それをみんな、乗り越えて、こうして、同じベッドで、心からくつろいで、そばにいる。
痛くもない、苦しくもない。お互いに、なんにも無理をしていない。
何十年と連れ添った、夫婦のよう。
ミントのいない生活なんて、考えられない。
たとえ、死別したとしても、僕の傍らには、常にミントがいるだろう。
不覚にも、こぼれる涙をすすって、まばたきをし、湧き上がる幸せを、かみしめます。
いつの間にか、僕は、結婚していた。
生涯、独りで暮らすんだと、あきらめていたのに。こんな可愛い奥さんが、来てくれて。
ミントの性別は、わからない。
オスかもしれない。そもそも、ぬいぐるみに、性別などないのかもしれない。
だが、それが、何だというのだ。
こうして、寒い冬の真夜中、寄り添って眠ることに、性器の形の違いなど、何の意味があるだろう。
子孫を残すためだけに、生き物は、つがうのではない。
温かいから。一緒にいると、安心だから。
結婚する理由は、それくらい。
それで、いい。
それが、いい。
ぴーぷす、ぴーぷす。
ぐっすりと、元気に眠る奥様を、起こさないよう、ひとしきり泣いて、伊勢さんご夫妻からの贈り物、ふかふかの、黄色い毛布で、二人を包みます。
決して、愛をあきらめないでください。
その人と、その物といる時に、ふつふつと、身体の底から湧いてくる、ぬくもりを、ただ、信じてください。
いつか、きっと、わかります。本物は、誰にも、奪えないのです。それでは、また。
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