上村元のひとりごと その58:声
こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。
イトーヨーカドーの「銀だこ」で、たこ焼きを注文し、焼き上がるまでの間、併設されたイートインスペースの隅で、ガラス越しに、店員たちの串さばきを眺めていました。
若そうな、多分、大学生でしょう。よく似た細長い青年が、二人、次々に、たこ焼きをひっくり返していく。狭い厨房で火を使っているため、ひどく暑そうで、首筋に、額に、汗が玉になっている。
僕が立っている隣に、ゴミ箱があって、その上の壁に、求人が貼り出されています。シフト制による時給、短時間からOK、副業可、昇給・昇進あり。
実は、アルバイトをしたことがありません。
大学時代は、授業以外の時間は、本を読んでいるか、鬱っぽく寝込んでいるか。とにかく、書く仕事に就きたくて、今思えば、実績のない新設の雑誌社に、新卒で採用され、十四年間、働き通し、会社ごと失職してしまった。
もしかしたら、今がチャンスなのかもしれない。
いくら、自分を物書きだと思っていても、実際に執筆依頼がないのでは、ただの自称に過ぎない。自称物書きが、どれほど悲惨な末路を辿るのかは、数多くの文学作品によって、既に証明されている。
失職した、ということは、お前の進む方向は、まるで見当違いである、という、神様からのお叱りである可能性が高い。ここは素直に承り、変なこだわりを捨て、凡庸な一労働者として、再出発を試みるべきではないか。
幸い、「銀だこ」の求人に、年齢制限はないようだ。あんな若い、弟とすら見なしづらい、むしろ、早くに作った息子くらいの若者に、手取り足取り指導してもらえば、いいおっさんの僕でも、きっと、美味しいたこ焼きが焼けるだろう。頑張れば、以前ほど、とはいかないまでも、安心して家賃が払えるくらいの収入になるかもしれない。
よし、ここはひとつ、奮起してみるか。
ちょうど持ってきていたiPhoneで、求人を写真に収め、出来上がった注文品を受け取って、部屋に帰りました。
「銀だこ」のてりたま味を、ミントはとても喜びました。
グラスのビールを、ちぴちぴ舐めては、ほどよく冷めたたこ焼きを、はみはみかじり、うっとりと目を細めて、めやーん、とつぶやきます。
豆腐とワカメの味噌汁(今日は、たこ焼きがあるので、タンパク質は入れませんでした)をすすりながら、僕も微笑み、そして、ふっと暗くなる。
声がうまく出ない。それが、ずっと悩みの種でした。
器質的に、障害があるわけではない。でも、しゃべろうとすると、詰まってしまう。もごもごと、こもった音しか発せない。
ライター時代は、もっぱらインタビュアーだったので、簡単な挨拶ができれば、問題はなかった。でも、「銀だこ」でアルバイト、となると、いらっしゃいませ、の訓練から始まるはず。果たして、ちゃんと言えるのか。
全く接客をせず、ひたすらたこ焼きを焼いているだけなら、まだ大丈夫かもしれないが、そんな職人を育成することを、「銀だこ」は目指していないだろう。面接の時点で落とされることは、ほぼ間違いない。
となると、対人業務のおおよそは、僕には務まらないということになる。
対人業務のない職種。声を出さなくてもいい仕事。思いつかない。物書きくらいか。それじゃあ、結局、一緒じゃないか。生涯、無職確定か。
けん。
不意に、ミントに呼ばれました。真顔です。
……ええっと? 僕は、けん、じゃなくて、げん、だけど?
けん。
……はい。
ぺっち。
おかわり? ああ、ビールか。わかった、今、入れるよ。
すっかり泡の消えたグラスを、急いで干して、缶からしゅわしゅわ、注いでやると、ミントは、みににに、と笑い、ちぴちぴ、ちぴちぴ、舐め出します。
ミントにとっては、僕がどんな声だろうが、関係ない。食べ物と飲み物を与えてくれて、布団代わりに抱っこしてくれれば、それでいい。
iPhoneを操作し、さっき撮った求人を見つめます。
ミント。
あーお。
あの、僕って、「銀だこ」で、アルバイト、できそうに見える?
めっ。
にべもなし、とは、このことです。ちらっとも、僕の方を見ずに、ミントは鼻を鳴らし、ちぴちぴ、ちぴちぴ。完全に、却下。
ため息をついて、写真を削除します。
どうか、「銀だこ」に、元気な若者たちが、たくさん採用されますように。
疫病の流行でふさがれていた、ありあまるエネルギーが、完璧なたこ焼きを焼き上げることによって、お客様に最高の笑顔を届けることによって、健全に発散されますように。
そして、僕のように、うまく声の出せない人たちが、絶望に沈みませんように。
自分を変えようと、無理をすることはない。心からそう言ってくれる、大事な人を、物を、うんと大事にしてください。それでは、また。
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