上村元のひとりごと その207:紅
こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。
送付したコラムの原稿が、無事、掲載が決まったと、ウェブマガジンの担当の方から、連絡が入りました。
ほんの短い文面でしたが、読んだ途端、安堵のあまり、手の力が抜けて、あやうく、iPhoneを取り落とすところでした。
間違いじゃないよな。ちゃんと、掲載するって、書いてあるよな。
何度も、何度も確かめて、本当に、決まったのだ。やった。バンザイ。
とはいかなくて、ずるり。炬燵に足を突っ込んだまま、仰向けに、床にひっくり返り、ぼんやりと、天井を眺めます。
のしーん。むふーん。
ちょうどいい敷物があるな。乗ってつかわす。
胸の上、ミントがとてとてやって来て、ぽたんと乗っかり、べったりと、お腹とお腹をくっつけます。重い。ついでに、ぐりぐり。頭突きもします。痛い。顎が痒い。
てぃるるる。気持ちよさそうな喉の音を聴きながら、なんだか、ようやく、社会復帰がかなったのではないか。思いつつ、ますます、力が抜けていく。
疫病で、会社が倒産するまで、十四年間。
ずっと、依頼を受けての、原稿作成に勤しんできました。
それが、半年前、不意に断ち切られ、文字通り、どうしていいかわからなくなった。
幸い、noteという、優れた媒体の肩をお借りして、書く腕そのものは、なまらないようにしてきたものの、依頼に合わせて、文体や、論旨を調整するという、ライターとしての技術が、錆び付いていくことが不安だった。
伊勢さんの写真に、文章を添える仕事は、はっきり言って、伊勢さんからの、経済的支援のようなもの。
本来、写真だけで、充分なのです。それに見合う力を、伊勢さんの写真は、持っている。
ところが、コラムというのは、文章のみ。
いかに小さな欄であれ、僕一人の力で、埋めなければならない空白。
それをお預かりしたということは、ライターとして、最低限、信頼に値するとみなされたということ。
これほどの名誉は、ありません。
ただ、伊勢さんたちのウェブマガジンは、絵画や、写真、映像を主とする、視覚系の雑誌です。
元飲食店ライター、かつ、同じ芸術でも、文学と、かろうじて、音楽は拾えるかな、という、音声系を専門とする僕には、提示されるテーマとの折り合いが、なかなかつきませんでした。
何度も交渉を重ねて、ようやく、色でいこう。
季節の色を、編集部の方で、毎月一色、決めるので、それに関して、できれば、美術に詳しい読者層の、心を動かす文章をお願いしたい。
承知しました。引き受けてから、およそ、三週間。
それは厳しい、地獄を見ました。
クリスマスシーズンに合わせて、お題は、紅。
特殊な色ではありません。それこそ、典型的なイメージから、個人的な思い出まで、いかようにでも、引き出せるはず。
信じて書き始めたのに、…駄目。全然。
たった500字が、まるで、千日回峰行のよう。
あまりに書けなさすぎて、絶望し、もう、何も書かない方がいいかな。物書きとして、いや、人間として、命に見切りをつけるべきかな。思い詰めた夜も、いくつだろう。
生き延びられたのは、ひとえに、ぬごろろろ。聞いたこともない、鳴き声を立てて、ずいずいと、僕の頭ににじり寄り、顔面を、ぽさぽさの、青緑色の毛皮で覆い尽くそうともくろんでいる、ミントがいてくれたからですが、それでは、物書きとしては。
どのように、地獄を脱したのか。何か、特殊な決め技でも発動したのか。
違います。
僕がしたのは、ただ一つ。
自分には、色の取り扱いは、向いていない、と割り切ること。
書けるはず、と思っていたから、書けなかったのです。
最初から、僕には、色について、素晴らしい文章は書けないのだ。
それなら、僕にできる、精一杯の努力をしよう。
紅、か。
紅といったら、口紅だよな。塗ったことはないけれど。手に取ったことさえ、ないけれど。
でも、ちょっと、憧れる。
濃い紅に塗られた唇に、指をつけてみたい。
ぐっと、力を入れて、なぞって、指先が、真っ赤になって、血のようなそれを、白い肌に、なすりつけたい。
きれいだろうな。傷みたいで。
どきどきしながら、しかし、氷のごとくに冷静に、文字にして、推敲を重ね、送付して、そして、やっと。
ミント。
あーお。
夕ご飯にしよう。今日は、熱燗だよ。
めやーん。
うっとりと、ほっぺたを垂らすミントを抱いて、起き上がり、一緒に台所へ向かいます。
おちょこに一杯だけの、しかし、上等な日本酒に、味噌汁と、白飯。つまみは、イカの塩辛です。それでは、また。
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