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「あの夏」への憧憬

現代の夏は暑い。外に出れば高い気温と強い日差しで息苦しくなるし、室内は文明の暴力で風邪をひきそうになる。そんな夏が嫌いで仕方ないが、北海道のクーラーのない部屋に引っ越してから更に嫌いになった。「北海道の夏は涼しいので大丈夫ですよ^^」とか言ってたあの不動産屋、絶対に許さんからな。

しかし、ある時期から「夏」に対してある種の憧れを抱くようになった。嫌いなのに憧れがあるとはどういうことなのか。何か主張したいことや同意を求めたいことがあるわけではないから個人的な「お気持ち」だけれども、眠れないので考えてみる。


ひまわり、積乱雲、木洩れ日、棒アイス、おばあちゃんの家……夏といえば一般に想起される単語たちだが、こういったものを要素として包含するいかにもな夏(=「あの夏」)をあの頃に戻ってもう一度体験したいと思うことがよくある。

「あの」と言っているくらいなので、その夏は時期が特定されているような気がしてしまうが、時期の特定はおろか、本当に既に体験していたかどうかさえ怪しい。ひまわりが咲いていた場所は全く挙げることができないし、実家は二世帯住宅なのでおばあちゃんの家という概念が存在しない。にもかかわらず、記憶の中の「あの夏」では確かに、どこか遠くにあるおばあちゃんの家に行ったし、庭にはひまわりが輝いていたし、空には大きな積乱雲が立ち昇っていたし、木洩れ日の下で棒アイスを食べていた。

支離滅裂なことを言っているが、そうなっているのだからどうしようもない。人間の記憶というのは曖昧なもので、実際に体験していないことを体験したかのように思ってしまうことはよくあるらしい。心理学の実験で有名なものがあったような気がするが、詳細は忘れてしまった。記憶は曖昧なので。

客観的に見れば「あの夏」というのはフィクションである。懐かしさのような感情を抱いているのに、その感情を表すのにまず最初に出てくる表現が憧憬(憧れ)なのだから、潜在的に自らもフィクションと認めているのかもしれない。フィクションなのだからノンフィクションな現代の夏とは違って好意的に接することができ、この差異が「夏」という単語に2つの世界を並存させる。

ただ、いくらフィクションだと意識しても、記憶の中に依然として存在する「あの夏」の追憶を止めることはできない。実際に体験していれば関係する場所を訪ねたり写真を見たりしていくらでも気持ちを満たすことができるが、「あの夏」にそんなものはない。昔を思い出すことが大好きな人間なので、この状態はかなり苦しい。

そこで、そのような気持ちになったときには『千と千尋の神隠し』を観るようにしている。自分の「あの夏」像を作り上げた元凶と言えば元凶だが、これを観ればいくらかは気持ちが落ち着く。ありがとうパヤオ。


現在にも未来にも希望が持てず、過去の追憶しか楽しめないのはあまりに虚しいし、人間として終わっている。これではダメだと思い、「過去を振り返るな」という趣旨の名言を探すけど、でんぢゃらすじーさんの1コマが最初に思い浮かび、自分は終わっていたことを再確認し、また追憶に戻る。


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