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ツールとしての支援者

支援者はツールだな、と改めて感じたというお話。

先日、発達障害の当事者の方が講演に登壇されていました。
理路整然と、自分自身の障害特性について話されていました。ここまで自分の頭の中でおこっていることを詳細に話せるというのは障害の有無に関係なく、すごいことだと感じました。

また自分自身のこだわりについては周りからは理解されないだろうと思う、と淡々と言われていて、いわゆる健常者との間の折り合いがついているのかもしれないと。

そういったこだわりや障害特性の部分について、大なり小なり健常者側にもある。
というか、「障害-健常」という対比、住み分けではなく、個人差として考えればいいのではないかという内容だったのかな、と私は整理しています。

「発達障害の障害特性」として表出しているものについても、本人の認知・頭の中の処理は個々人によって違う。そこに焦点を当てることの大切さも述べられていました。
AさんのこだわりとBさんのこだわりは同じものでも、なぜこだわっているのかは違う、というように。

その方は現在障害を伝えた上で就労されています。
最近自宅を購入されたということでしたし、結婚もされています。資格を取得されて、会社にも了解された上で個人事業もおこなっている。精力的で公私ともに充実されているようでした。

さて。
この方を支援された方も登壇されていました。
おこなった支援の内容は、ひたすら本人に「なぜ」をぶつけて、本人の強みを把握し、それを活かす働き方を企業に提案し続けたという内容でした。

本人の発した言葉は一見突飛で飛躍している。それをそのまま会社に伝えたところで真意は伝わらない。
そこで支援者が本人に「なぜ」をぶつける。
本人としてはその「なぜ」自体が「なぜ」だったようですが、突飛であることを支援者が伝え、本人も根気強くそれを分解して整理して伝えることができるようになったそうです。

そこで改めて、支援者はいわゆる健常者が理解できる形に出力する手伝いをおこなったんだな、と感じました。
つまり、翻訳ツールのようなものでしょうか。

そうやって、上手く使ってもらう。
上手く使ってもらうにもテクニックがある。

とっても当たり前で、何をいまさらと自分に対して思いもしたけれど、改めてすっきりと入ってきたので、気持ちよかったのです。

結局は、障害とかそうじゃないとかではなく、私がAさんを、Bさんを理解するために、逆にAさんに、Bさんに理解してもらうための努力を続けることで、人間関係や職場での関係が円滑になって、お互いに助け合えると思うんです。
理解というのは、全部をわかるということではなくて、わからない部分を踏まえて接し方を調整するという程度の「理解」です。職場という場面では互いの仕事が成立する程度の「理解」でいいのです。折り合いです。
でも今の社会にはそういった余裕は少ないのでしょうね。自分自身を含めて。

だから私たちのような「支援者」とかいう名前のついた役割が必要(本当に必要とされているのかは疑問ですが)なのかもしれません。

どうせあるんだから、上手いこと使ってもらってなんぼです。
使い方を上手く説明できるように、または多少相手の使い方が下手くそでも上手に目的地に運べるように、ツールとしてアップデートしていきたいですね。
AIには負けんぞ。

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