amazarashiについて語りたい~ジュブナイル~
「歌詞を見ながら聴きたい曲が、いまいくつあるだろう」
私が胸を打たれてやまないamazarashiの歌詞たち。
その中から1曲ずつ一部の歌詞を取り出し、考えたことや感じたことを書き連ねたい。散文、乱文。思いつくままに書いていきたい。
ぜひ記事を読んだ後に紹介した曲に興味を持ったら聴いてみてほしい。
今回取り上げるのは『ジュブナイル』。
アルバム『ねえママ あなたの言うとおり』の一曲。
アイデンティティ確立の前にある君よ。どうかこの曲を聞いてほしい。
何歳だっていい。自分自身にまだ疑問を持っているあなたよ。あなたはあなた自身を誇るべきだ。
さていってみましょう。
まるで自分と、それ以外のような境界線。
そんな線引きをバカバカしいと思いながらも、確信に近いその確信。
前提として、自分が嫌いなのだ。
侮辱しているのは一体誰か。
人気者の彼らか。それとも自分自身か。
帰りたいとか、死にたいとか、そんなことではなく、ただ消えてしまいたいのだ。
小さくなって消えてしまいたかった。それは生きていることを恥じているという感覚に近い。ただただ申しわけない。申し訳がない(なぜ生きているかの説明ができない)のだ。
嫌いな理由ならいくらでも挙げられる。それを否定するわけでもなく、背負って進んでいかなくてはならないのか。
それはなぜだろう。自分のことが嫌いだ。嫌いでたまならない。
自分がなりたい者は腐るほどある。
優しい人。楽しい人。明るい人。好かれる人。独特な人。他の誰でもない、その人という人。
でもそういった人にはなれない。一番の敵は自分で、「そういった人ではない」と自分を否定してくるのは他でもない自分自身だった。
自分を信じられる理由はなんだろうか。
その根拠は?誇示できるほどの確信はあるか?
そこに疑問を持っていても、そんな自分のままでやり遂げろと言う。
こんな自分のまま進めるだろうか。こんな自分のまま戦えるだろうか。
そんな疑問だけが頭を埋め尽くして、今の自分に自信も根拠も持つ
ことなんてあり得なかった。
そのままでいるのならば、そうなりたくはない自分だ。
そこで浸っているままでいいのか。それとも少しでも動き出したことを誇るのか。
すべてわかって始めたはずだ。他の誰がなんと言おうと、よくよく考えて始めたはずだ。そこに他人のことなんて勘定になかったはずだ。
始めたのは自分なのだから、責任の所在がどこにあるのかは、痛いほどわかっているはずだ。
自分が自分で居られる理由を考えたことはあるか。
腐るほどある。自分は何か。何者か。何になりたいのか。他の人との差異は何か。
聞き上手。優しい。真面目。いい人。話しやすい。そんなことを言われた。
それは正しいのか。そう在りたいのか。そう在らざるを得なかったのか。
何が自分か。他人に言われた自分が自分か。自分が思う自分が自分か。
自分、じぶん、ジブン。わからなくなる。
でも、他の人からの評価は置いておいて、自分がなりたい自分が恐らくあった。それを誇れるか。誇っていいのか。
当時の自分は自分に自信なんて持てなかったから。
アイデンティティを探す途中。
自分自身に疑問を持っていた時期。
周りから思われる自分と、本当の自分の乖離。
そんな渦中にあるあなたにこそ聴いてほしい。
それでいいのだと。
その自信のなさも含めて誇れと背中を押してくれる。
今のまま、その未熟さを誇れと言ってくれる。
全てを通りすぎたと思える今でこそ、悩むことがある。
そんな自分が言える。
さんざん迷っていい。だからこそ感じられることがある。
苦しいだろうけど迷っていい。
迷うことに自信を失わなくていい。
意外と大人も迷っているよ。
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