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amazarashi『1.0』について

ちょっと待ってほしい。いや、焦っているのは私なのですが。
昨日、amazarashiの新曲『1.0』のMVがyoutubeに公開されました。
まずはちょっと聴いてみてほしい。

おわかりいただけただろうか。
そう、エモいんです。
これまでもamazarashiはエモかった。amazarashiは毎回、歌詞をしっかりと読ませてくれる。今回もその例に漏れず、活版印刷で歌詞が表現されていく。
少し古めかしい映像を思わせるエフェクトと相まって、これがまた雰囲気がよい。

そして何より、歌詞がこれまでのamazarashiの曲を彷彿とさせるものがちりばめられていて、個人的にはニヤニヤとしてしまうシーンもあった。
秋田さんの世界観の一貫性は保ちながら、それでも初期の頃とは目線というか方向性が変化しているようにも感じて、ワクワクとした。

歌詞は全て聞いてこそのものだし、個人の解釈は無粋だけれど、いくつか部分的に抜粋して、私の感じたことを羅列したい。

以下の“”で囲った太字部分は歌詞の抜粋となります。


“悲観とは未来にするもので そう考えると悲観してるだけましだと思いませんか
「どうにかなるさ」という言葉は 他人ではなく自分に使うものです“

なるほど。悲観とは確かに将来に向けてするものか。
未来のことを考えているのだから、方向性としては前向きなのかもしれない。
過去に対してするのは後悔や絶望だろうか。喪失感や不満かもしれない。
視線は前を向いている。それだけでマシだと思えることもあるのかも。

「どうにかなるさ」は楽観的で、私は人に言うことは憚れる。
そこに何の根拠も見出せないから、無責任な言葉だとも感じていた。
けれど、自分に対して使うのであれば、楽観は悪いことばかりではないかもしれない。
それに、後から出てくる歌詞の流れを踏まえると、そう言える自分の中の根拠、自分にだけの体験などを経て出てくる言葉だとするとどうだろうか。
説得力、という視点では自分に対して使う上でも納得はできないけれど、自分を包むような言葉としてであれば、これは効果的かもしれない。
自分に対してそういう言葉が言えるといいな、と思う。


“季節外れの海水浴場にて 寄せては返す過去と未来出会いと別れ、光と陰
そんなものと遠く離れて ただ息をしていたいだけなのに なみだがこぼれそうになって
もう無理かもなって もう無理かもなって

それでも逃げ出せない因果を かつての嘲笑も罵倒も 後ろ指差されたこととか
全部帳消しにできるもの 嵐でも折れない旗のように 絶対的に誇れるものが
見つかりますように 見つかりますように“

ただ息をしていたいだけ、という切望と、もう無理かもなって、という絶望というか達観というか。
本当にもう、ただ普通に生きていたいというか、ただ在りたいだけの時間が自分にもあったな、と。それすら許されないように思って涙が出てきて、それを許してくれないのは自分なんだと理解した時に、なんかもう無理かもしれん、と遠いところから理解したような感覚になった。そういうことを、こういう言葉で綺麗に歌ってくれているように感じた。

全部帳消しにできるものがあるのか、と今でも思う。いわゆる、「虎視眈々と全部が報われる日を待っていた」という時期が確かにあった。
そんなものはないと思いながらも、あるはずだ、あってくれと祈ってきた。どうだろうな。見つかったように思う。清算された日が確かにあったのだと思う。
それにしても、嘲笑や罵倒や後ろ指って言葉は秋田さんの曲には頻出するなと思う。

“きっと0か1でしかなくて その間に海原が広がり
泳ぎきれずに藻掻いている 生きたがりの亡霊たちが
凍える心に声もなく 消えたい願いすら叶わず
死にたいなんてうそぶいたって 対岸の灯が眩しくて

それでも逃げ込める居場所を あなたを呼び止める声を
もうここで死んだっていいって 心底思える夜とか
報われた日の朝とか あなたにとっての「1」が
見つかりますように 見つかりますように”

生きたがりの亡霊というのはもうとってもリビングデッドです。
死にたいわけじゃないんだよな。消えたいと思うんだよ。小さく小さくなってしまいたい。それでも、その感覚を表現する言葉が当時は見当たらなくて、死んでしまいたいという言葉に行きついた。しっくりこない感覚。
でもその言葉に縋ってしまう人もいて(死にたいのが本心の場合もあるだろうけど)、いつの間にかそれが自分の現在地を表す言葉になってしまう人もいるのかもなと思った。そんな時に、言葉って大事だなと感じたんだった。
大学の教授に「感情を表現する言葉って日本語だけじゃなく、外国語の中にもある。その中にしっくりくるものがあるかもしれない」と言われてはっとした。
まあはっとしただけで外国語を学ぶことはなかったけれど。
自分はこういった、歌詞の中に見つけた。その言葉だけでなく、歌全体の雰囲気も合わせて、「ああ、こういう感覚です」って勝手にシンパシーを感じている。

そして、あなたにとっての「1」の中に、逃げ込める場所や呼び止める声、報われた日の朝と同列に、心底死んでもいいって思える夜が並んでいることが本当にぐっときてしまった。
前向きな意味なのだと思う。すべてをやりつくして、ああもう大丈夫だって思えた日のことなんだろうけれど、「死」という忌避されるものを、ここに並べてくれるだけでなぜか自分はうれしかった。

これまでは秋田さんの記憶の清算や当時の感情、世間、社会、世界に思っていることをどーんと鎮座させている、あるいはそれを武器に「お前はどうなんだ」と迫られている、あるいは感情を叩きつけられているような曲が多かったと感じています。
でも最近は、絵本の読み聞かせのように「ここはこう思うんだ」って語り掛けてくれたり、こっちは大丈夫になったよって教えてくれたりしているような曲も感じる。
そう思っているとふいに切りつけられるわけですが。

とにかく、今回の曲はすごくよかった(語彙の消失)。
聞いてその場で語り出したいくらいだったというか、奥さんと歌詞を眺めてあーでもないこーでもないとしていた。
アルバムも出るので楽しみ。ライブ参加も決まったし。

昨晩はとてもよい気持ちになった夜でした。

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