見出し画像

稔 第3回|蒲田のK子さん

高校時代は恋愛と呼べるような付き合いはなかった。男子高だったので、学校外に相手を求めて友達に女の子を紹介してもらったりしたが、その後の発展はなかった。周囲の友達が自信満々に見えて自己嫌悪になったり、実際知り合ったあとのプロセスを想像することもなく実行力に欠け、願望として「相手がいたらいいなあ」という程度の気持ちしかなかったのだろう。

転機は大学に入ってすぐに来た。ディスコで軟派した女性となりゆきで付き合うことになった。昭和48年頃のことである。第何期ディスコブームなのかよくわからないが、ソウルミュージックが流行っていた。メジャーなところではテンプテーションズ、スタイリスティックス、女性ではダイアナ・ロスがいたシュープリームス、その後に出てきたザ・スリー・ディグリーズなどの名前を思い出す。ソウルといったらダンス。ダンスといったらディスコである。ディスコは、ツーリングに例えると多摩周遊道路か伊豆スカイラインぐらいの出会いの聖地なのだ。大学仲間と新宿のディスコに出撃ということになった。
 
ここで少し、バイクの話をさせていただく。最近、若い頃バイクに乗っていた人が年老いてリターンする事例が多い。高速のパーキングエリアでヘルメットを外すと、バイクに跨っているのはオヤジが多いことに気付く。かくいう私も3年前にリターンしてバイクを買った。ヤマハXJ6ディバージョンだ。快調である。快調すぎて、先日スピード違反で捕まってしまった。多摩周遊道路で40キロ制限のところを47キロ。オーバーだ。ここはバイクが多く、サーキット状態なので警察もマークしていたようだ。毎年何人かのバイク乗りが命を落とす道でもある。

捕まったから運が悪いとは思わない。最近、普段から平均速度が上がっていたので「このままではそのうち事故を起こしますよ」という戒めであると考えている。違反は手痛いが良い薬になったということである。

話をディスコに戻す。朝までには返す、という約束で親父から車を借りた。「箱スカ」の別名を持つスカイライン2000GTだ。GTという名のわりにはDOHCでもターボでもなく、他社からは名ばかりのGTと揶揄された。タイヤもノーマル。金に余裕のある若者や車に金をつぎ込んでいる若者は、少し太いラジアルタイヤを履き始めている時代だった。

さて、ディスコで踊っていると急にチークの曲になった。チークの曲はいつも突然かかる。すると相手のいない男女は自席に戻って飲み物を飲んだり話したりという休憩タイムになる。チークの相手はもともとペアで来ている場合もあるが、私たちのように男性同士で来ている場合はチークタイムになった時が声をかけるチャンスである。

いきなり始まった曲がスタイリスティックスの「誓い」。甘く切なく、とろけるような曲だ。ダンスフロアの男女を磁石にしてしまうような曲である。黒人男性歌手の高音はいい。ソウルとは直訳すれば魂だが、魂に響く。例えば風邪をひいた時に無理して発する高音というか、高音なのに頭に響かずちゃんと腹に響くのだ。

「YOU MAKE ME FEEL BRAND NEW~~~~」
君が僕を変えてくれた、という訳らしい。YouTubeなどで聴けるので今の若者にもぜひ聴いてほしい。

ディスコの暗さは人を大胆にする。もともと私は女性に対して積極的ではないほうだが、この時はすんなりと傍にいる女性に声をかけることができた。

「一緒に、踊らない?」

この場合、「踊っていただけませんか」や「踊ってください」ではこの場の雰囲気に合わない。「踊ろうよ」もしくは「踊らない?」がふさわしい。周囲はすでにチークを踊っている。素早く声をかけて相手はすぐに返事をしなければならない。フロアでチークを踊らずに立っているのは、見苦しいし邪魔だ。

女性から「んーーー。いいよ」と返事が返ってきた。チークタイムは2、3曲あったと思うが、その時に何を話したかは憶えていない。チークタイムが終わり、すぐに彼女のあとをついていくのもダサいので、一旦自席に戻り、改めて話しにいこうと思った。

ディスコにはフロアを囲むように席があった。階段や柱などで死角になる席も多い。この場合、一緒に行った仲間の観察の協力が重要である。仲間の協力のもとチーク相手の席を確認し、フォローのプッシュである。10分ほど時間を置き、私は女性の席に行った。「さっきはどうも」などと話をしたのだが、どうもおかしい。チークは踊ってないという。追い返されるのかと思ったが、ちゃんと話をしてくれる。よく聞けば、今、話をしているのはチークの相手の友達だった。そういえば、チークの時はじっくり顔を見ないものなあ。

ともかく、チークの相手ではなくその友達と知り合ったのである。彼女たちは3人で来ているとのことだった。名前はK子。蒲田に住んでいる、私より2歳年上の女性だ。今年短大を出てOLをしている。話をしていてウマが合う、意気投合、肌が合うという印象である。モデル系美人やスレンダーではなく中肉中背だが、もち肌で色気を感じさせる。見た目の感じを芸能人で例えると、田中麗奈と似ている。もちろん当時は田中麗奈は生まれていない。ディスコの時から数えて25年後の1998年、サントリーの「なっちゃん」のCMに田中麗奈が出てきた時は似ているので少し驚いた。

ディスコも12時頃閉店になり、私とK子以外の男女はそれぞれ終電で帰宅した。私とK子は、すぐ帰るのはもったいないという気持ちがあり、朝まで一緒に過ごすことなった。一旦私の車に落ち着いたもののどこへ行ったたよいかわからない。少ない経験と知識から、上野に深夜でもやっている喫茶があることを思いついた。名曲喫茶である。1、2階は普通の喫茶店だが、3、4階は同伴喫茶になっている。私もK子も3階へ通じる階段をごく自然に上がっていった。

その後、付き合いが始まった。彼女の職場は霞ヶ関ビル、私の大学は千葉県なので、もっぱらデートは日曜日である。そのほうがお互いの生活を干渉せずによかった。彼女も私もプレイボーイ、プレイガールや大人の雰囲気、人気車に憧れているが、自分の仕事や勉強もそこそこにやっておかないと不安になるという性格である。いくら付き合っても、私が学校を辞めて一緒に暮らそうなどという具体的な話は、交際期間5年間のうち一回も出なかった。

彼女は、自分の目標は金持ちと結婚して玉の輿に乗ることだと、知り合った当初から言っていた。安易な目標ではあるが。そうであるなら、私などとはさっさと別れて目標に適う相手を探せばいいと思うのだが、人間は感情の動物なのでそうそう簡単にはいかない。目標に向かって進みたい反面、友情、愛情、情に流されたり、脇道に逸れたり、遠回りの道を選ぶ時もある。5年も付き合っていれば、くっついたり離れたりするものだ。私から「もう終わりにしよう」と言うと、何週間かして私から「今度、いつ会う?」という電話をかけてしまい、その逆もあった。別れ話は言われたほうが楽で、言い出したほうがつらく、後々情を引きずるものである。

知り合ってから5年。彼女25歳、私23歳、そろそろ先行きのことを考えなければいけない。その頃、学校を卒業した私は親戚の建設会社に腰掛け的に就職した。まだ仕事も十分にこなせず、将来的な展望も持ち得なかった。交際は新たな段階に進むか、ここで撤退するかの正念場である。

K子「これまで、いろいろあったけど、本当に終わりにしようか」
私「そうだよな。初めから知り合っていなかったことにすれば、忘れられるよなあ」
K子「青春の大事な時間だったのよ。もう稔ったら、本当にあきれた。そういう人だったね。さよなら」

これで良いのである。双方が別れ話の言いだしっぺであり、言われたほうであるので、「言ったほうが再会を申し出る法則」によれば、どちらからももう電話できない。

この話は、私が18歳から23歳の頃の話であり、区役所に入る前、連れ合いと知り合う前のことである。

ユーミンの「卒業写真」の最後の歌詞。

あなたは 私の青春 そのもの

ここから先は

0字

500円

1955年生まれの父・稔が半生を振り返って綴り、娘の私が編集して公開していくエッセイです。執筆時期は2013年、57歳でした。

読んでくださってありがとうございます!