Re: M君とソフトボール

学年内でもイケてる存在のM君に憧れと羨望を持ってたんだなあ、稔さん。あとこの「稔」全編に言えることだけど、忘れた頃にちょいちょい自慢というか自身のエクスキューズが入ってくるところが、らしい。稔さんはええかっこしいである。外ヅラがよく、実際スポーツも勉強も、なんでもやれば中の上くらいを出せたのだと思う。

「ぼくの行くところへ~~~ついておいでよ~~~。夜空にはあんなに星が光る~~〜」
「ショック(カルチャーショック)。いい」(湘南サウンドに初めて触れた)

(笑)。普通なら当然編集するところだけどたいへんに和むので生かした。

M君の家は、おでんの材料を製造する工場を営んでいる。屋台のおでん屋や小売店、スーパーなどが、そのおでんを仕入れに来る。1階が作業場、2階が自宅になっている、木造2階建てだ。2階といっても中2階で、お城のような急な階段で2階へ上がれば、2階の部屋の窓から工場内を見ることができる。増築を繰り返したであろうその建物の下見板貼りの外壁は、こげ茶色に変色していた。今あるとすれば、レトロで懐かしさを感じる建物である。

稔さんは一級建築士なので、このあたり建物に関する記述が詳しい。執筆当時も区役所のまちづくり課を勤め上げて退職したばかりの時期だったから、建築にまつわることは自然とスラスラ考えられる状態だったんだろうな。退職して、再就職も終えて、完全な在宅おじいになった今は建築のことなんておくびにも出さないけどどうなんだろう。

それにしても、小学校や中学校で転校しちゃった友達のことって確かにピュアなメモリーとして残っている。時代や地域に関係なく多くの人にある。保育園から仲良くて小4で転校したちはる、障がいで特別学級のある学校に行くことにしたひろみちゃん、小1の時ケンカ友達だったしょーまる。あの頃は仙台や青森って地球の裏側のように遠いと思ってたよ。

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1955年生まれの父・稔が半生を振り返って綴り、娘の私が編集して公開していくエッセイです。執筆時期は2013年、57歳でした。

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