荒川佳洋氏の連載「現代川柳時評1 自己表出の短詩文学」を読む
X(Twitter)に荒川佳洋氏の連載「現代川柳時評2 川柳評論の現在」を読んで思ったことをポストしていていましたが、noteにまとめてみました。
で、改めて「現代川柳時評1 自己表出の短詩文学」を読んでみました。
初読と同様に引っ掛かったのは次の引用部分。
時評書き出しの一文です。ここで指す「センリュウ」とは何のことでしょう。それと何故「川柳」と書かずにあえてカタカナ表記の「センリュウ」としているのでしょうか。
また、「現代短歌、現代俳句と肩を並べて」とあります。これは、『かつて「現代川柳」は「現代短歌、現代俳句」より劣っていたが、最近になってからようやく対等な位置に立つことができた』と読み取ることもできてしまうのですが、気のせいでしょうか。
さらに、「文学を求める」とあります。“センリュウ”とは異なり、“川柳(=現代川柳?)”は文学を求めるものであるようです。では、文学を求めていなかった、言い換えれば、文学性の無いセンリュウとは、どのようなものなのでしょうか。
時評の中で、荒川氏は次のように言います。
つまり、
センリュウ = 「わたくし」がない、社会批評、時事風刺、人間観察 = 文学性が無い
であり、
川柳(=現代川柳?) = 切実な主題、体験の普遍化、自己省察、「孤」の探求、「わたくし」の感性への執着 = 文学性がある
ということなのかもしれません。
しかし、真に社会批評、時事風刺、人間観察を核としたセンリュウには文学性は無いのでしょうか。社会批評、時事風刺、人間観察を核とした有名無名の句に荒川氏は出会うことはなかったのでしょうか。出会ったとしても、共感共振驚嘆することも心揺さぶられることも無かったのでしょうか。
「社会批評、時事風刺、人間観察」というキーワードから、そう、例えば、渡辺隆夫の句が浮かんできます。荒川氏は渡辺隆夫の句を読んだことは一切無かったのでしょうか。それとも、渡辺隆夫の句を読んでもなお、そのような考えを持っているのでしょうか。
それにしても、何故カタカナ表記にしているのは分かりません。軽みのようなものを表現したかったのでしょうか。それとも、何かを皮肉っているのでしょうか。どこか小馬鹿にしているようにも受け取れてしまいますが。はたまた、夢野久作は動詞等の品詞にカタカナ表記を多用するように、荒川氏の独特な表現方法のひとつなのでしょうか。
なお、時評内に書かれている荒川氏の川柳の読みについては、何もありません。川柳の読みというものは、一人ひとり違っていて良いと思いますし、ここに書かれているものは荒川氏にしか書けないものです。ですから、たとえ、わたしの読みと違ったとしても「その読み、おかしいよね?違うよね?」とは決してなりません。
最後に。
「現代川柳時評1」「現代川柳時評2」ともに文中に一回も“現代川柳”という言葉が使われていませんでした。たまたま使うタイミングや言い回しが無かっただけなのでしょうか。
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