疑問に思っていること

特定の時代・歌人だけを読んでも、影響を受けて詠んでも良いのではないのですか?

「実景」でも「虚景」でも好きに詠んで良いのではないのですか?

流行りでも視野が狭いでも別に良いのではないのですか?

何故、作者のパーソナルデータを提示しないといけないのですか?

作者は短歌を楽しみながら苦しみながら詠んだ、そのような事実だけでも良いのではないのですか?

例えば、特定の歌人Aを愛してやまない人が「(時代も作風も異なる)歌人Aは歌人Bの歌集Cを愛読し影響を受けていた」旨を見聞きすれば、歌人Bの歌集Cや、歌集C以外の他の歌集を手に取るかもしれません。その手に取った歌集から更に他の歌人・歌集へと興味好奇心が広がるかもしれません。そういうことってありますよね?

例えば、たまたま気になった歌人Dの短歌を読んでみたいと思っても、新刊書店で売っていない・古本は高騰している・図書館にはなかなか行けない、等の理由で容易に手に取ることが出来ないことがあります。古本屋をたくさん回ればいい? 図書館に行く時間を確保すればいい? 図書館では他図書館の所蔵本を取り寄せることもできるから手続きをすればいい? 古本屋を回る時間・費用が無いとしたら? 図書館に行って手続きをする時間があるのであれば、短歌を詠みたいとしたら?

「(たくさんの歌人のいくつもの歌集を読んでいるけど)特定の時代・歌人を読み影響を受けました」と端的に挙げていた、と少しでも考えようと思いませんか?

例えば、「実景」を詠んでも自分自身が面白くない楽しくなくても「実景」を詠み続けないといけないのですか? 誰からも評価されないとしたら? 下手だから? もっと勉強しろ? 技術を磨け? みんなだって頑張ってる? 気にしなければいい? 

例えば、「虚景」を詠んだとしたら、実感に乏しい本物ではない短歌ではない等と言うのですか? 何故「虚景」はいけないのですか? 『「虚景」を用いた比喩』という考え方はないのですか? 

「実景」しろ「虚景」しろ、作者は誰のために何のために詠んでいるのですか? 誰のために何のために詠まないといけないのですか?

いろいろな人がいろいろな短歌を詠む限り、上記で挙げた以外に考えられるケースは勿論たくさんあります。しかしながら、迎合されることは少なく、苦言を呈されることが多々あると感じます。何故でしょう?

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