「春にして君を離れ」知りたくない、不都合な真実から目を背ける人たち

「春にして君を離れ」

鴻上尚史さんの朗らか人生相談が好きなので(ちなみに岡田斗司夫さんの人生相談も好きだ)、相談内で紹介されていた小説を読んでみたくなった。

それがかのアガサクリスティが別名義で書いた「春にして君を離れ」である。

書店に問い合わせると店内在庫があるとのことで、すぐ入手できた。kindleでも良かったのだが、なぜか書籍が欲しかった。

帰宅し早速読み始めると、その恐ろしいまでの筆力、人間描写力に、あらがえない重力が発生しているのではと思うほどに引き寄せられて、その日のうちに読了してしまった。

概要

どのような内容かと言うと、第二次世界大戦が起こるほんの少し前のイギリスで暮らす中流階級の主婦と、その家族の話である。

弁護士の妻であるジョーン・スカダモアは多忙な夫を支え、三人の子供たちを立派に育て上げた幸せな主夫。

夫を愛し愛され、三人の子供には一流の教育を与え、道を踏み外しそうになったときは諫め正し、何不自由のない暮らしをさせてきた。

自分とその家族に満足し、またその満足は自身の身を粉にするような、家族への愛と挺身、たゆまぬ努力によるものと信じ、それを誇りに思っている。

自分を愛し、人生に満足し、自分をひとかどの人物と思い込んでいる。それが主人公ジョーンである。

探偵も殺人鬼も登場しないし、殺人も起きない。ただずっと、ジョーンの視点で語られる今現在目の前で起こっていることの描写と、過去の回想が延々とつづられているのみだ。

だが、このひとり語りで語られる回想と言うのが、サスペンスを通り過ぎ、自身に対するホラーのような恐怖をもたらす。

あらすじ

嫁いだ娘が重い病気になり、その娘一家の世話をするためにイギリスから遙かイラクのバグダッドまで駆け付けるジョーン。

母親としての責務を全うするため、遠方から駆け付け、かいがいしい挺身の介護、家の切り盛りなどありったけの愛情を娘とその夫、生まれたばかりの孫に注ぐジョーン。母親としてやるべきことはできたと満足して彼女はイギリスの帰途へつく。

途中、女学生時代の友人とばったり出会う。表向きは楽しく昔話や今の状況など話に花を咲かせながら、その心のうちでは友人の落ちぶれよう、老け込みよう、薄汚い恰好やだらしない経歴に心の底から彼女を哀れみ軽蔑するジョーン。

友人と別れた翌日、帰路途中の砂漠で天候による足止めをくらい、4日間、線路と砂と空しかない小さく暗い宿泊所に留まらざるを得なくなる。

砂と空しかなく、娯楽も何もすることがないそこで、ジョーンは昨日出会った友人の言葉を思い出す。「何日もずっと自分のことだけを考えてすごしたとしたら、自分についてどんな新発見があると思う?」

この言葉が妙に心に引っかかってしまうジョーンは、生まれて初めて、自分自身の行いと、思慮の浅さ、家族に一体何をしてきたのか、それによっておこる様々な反応に対して、その全てを怠惰に、一番自分が楽をできる解釈を選び取ってきたかを、つまびらかに、ひとつひとつを思い出してゆく。

そしてそれらが致命的に自己中心的で、他人の思いや時には人生そのものを押しすり潰し、人の心を壊す行為であったことを知る。

さらに家族が誰一人、自分を愛していないこと、夫には他に心から愛する人がいた事を、本当は見て聞いて考えて、当時から気づいていたにも関わらず知りたくない見たくない、夫は私を愛しているし、私は素晴らしい女性なのだと蓋をしてきたその真実を真っ向から見つめ、認め、受け入れるという壮絶な話なのだ。

夫の人生を自分が踏みつけにし、自分の利己的な理由から夫が夫の人生を歩くことを許さなかったという事実に気が付いたジョーンは、一刻も早く夫に謝罪し、これからをやり直すためにどうすればよいのかと教えを乞いたい気持ちになる。

しかし、やっと本当の自分という人生の足跡と人間性の形に気がついたにも関わらず、帰路の列車の中で、駅で、文明世界へ回帰してゆくにつれ、「あのようなことを思ったことこそ妄想で、ただの想像にすぎなかったのでは」と、「いつものように」考えることを破棄しだす。そして「いつものように」自分が一番楽で、他人を傷つけようとも自分が傷つかない最も怠惰で勇気のない選択を選んでしまうのだ。(この作品で何度も勇気という言葉が登場するのは、主人公に真実と向き合う勇気のなさを表していると解釈した)

そうして再び夫の前に立った時には、ジョーンはすっかり旅立つ前の彼女に戻っていた。元通りの自画自賛に満ち溢れているのに、本当は誰からも愛されていない、ひとりきりの哀れな中年女性に。

何一つ変わらない、人の心を知ろうともしない。いつだって自分が何よりも正しくて、良い行いをし、家族を愛し愛されていると信じていたい自分の妻の姿を見て、夫のロドニーが最後にこう思う。

「かわいそうなリトル・ジョーン、君はひとりぼっちだ。おそらくはずっと。どうかそのことに君が気付くことがないように」と。

ざっくり書くとこんなあらすじではあるのだが、内容はもっと濃密で多岐にわたるので、気になる人は読んでもらえたらと思う。

家族は悪いのか

幾つかの感想に、彼女がこんな状態なのに、放っておいた夫が子供が悪い、家族も同罪、というものが散見されたが、私はこれらの意見にあまり大きく賛同できない。

確かに、彼女が生きやすくなるように彼女が選びとる浅はかな選択で、周囲の人間も彼女本人も不幸になって行くのだから、誰かが彼女を救えなかったのかと思う気持ちはわかる。わかるが、実際に彼女のような「絶対に人の話を聞かない人」を変えることはできないし、変えようとした人の人生のリソースが甚大な被害を受ける。だから及び腰になる。

人間改革などジョーン本人が出来ないのだから、他人にはさらに無理なことだ。

確かに、夫のロドリーや娘のエイヴラルはジョーンに全く反論しない。ささやかにそれをしたとしても、二、三回そのラリーが続くと説得を諦めて引き下がる。

その諦めを、解説の栗本薫は「怠惰と怯懦」と書いている。物事を変革するのは面倒だ、真実と向き合う勇気もない、と。

全くその通りなのだが、誰も彼女を助ける愛情や勇気を持ち合わせていなかったのも仕方がない事で、ここにまたこの小説の悲しさがある。助けたいと思っても、当の本人が助けてもらいたいなどと思っていないのだ。

ジョーンもロドニーも、父親母親夫妻の役割を一生懸命果たしている。それは事実でとても立派な事だと思う。ただそれ以上の事ができないくらい、この家族の内側が壊れてしまっているのではないかと思うのだ。

もしかしたらここでもっと家族の衝突が描かれていれば、それが「彼女を救おうとした努力の痕跡」というような証拠にはなったのかもしれないが、私個人としてはすでに家族は諦観の境地へ至っているのだと解釈した。

だって実際ジョーンは誰が何を言っても、自分が間違っていたり、加害者であることを決して認めないのだから。

そして仮に、困難に立ち向かう勇気が、かつては家族の胸の内にあったのだとしても、やがてそれはくたびれ摩耗し、なくなり切ってしまうのだ。この家族はもうそこに達している。

後述するが、私は経験からそれを知っている。

この小説の怖さとは何か

さてこの小説がなぜ怖いのかと言えば、

①女であり、家庭を持つ身であるのなら、自分はどうだったろうかと振り返らずにいられないところ、

そしてもうひとつは

②自分のまわりにジョーンのような人がいて、その被った過去の痛む出来事を想起せずにはいられないところだ。

私個人としては、①をまず夫にずばり聞いた。私はこんなじゃなかったろうかと。答えはそんなことないよとのことだったが、これが作中のロドニーのように優しく怠惰な諦観によるものでないと誰が証明できるだろう、などとすっかり影響を受けたような文章で考えてしまうのだ。

しかし実のところひとつ目よりも、ふたつめの恐怖の方が私には大きく、毒であった。

なぜなら私の母がまさにこのジョーンのような人だったからである。

母と祖母について

私の実母はいわゆる毒親育ちであって、非常にかわいそうな人生を送ってきた人だった。祖母の夫、つまり母の父親は殺人事件の被害者であり、犯人は見つかっていない。死体も上がっていない。犯人とおぼしき人物は地元有力者の息子で、そもそも警察がまともに動かなかったという。

さっと書いたが、とても恐ろしい事だ。

そして兄妹五人の一番先に生まれたというだけで、祖母は母になんと、「夫」の役割を課せたのだ。これ以上は恐ろしくてとても書けない。

そしてまたその親、私から見て祖母である彼女もまた毒親育ちの孤児であり、親に捨てられ今日食べるものが何もなく、妹はひそかに売られていて…と、令和の世の中ではちょっと考えられないとてつもなく凄惨な人生を送ってきた人だった。

たぶんその親も、その親も、その親も、壮絶な人生を送ってきたのだろう。

毒親の連鎖がずっと続いているが、私自身はそうではないと思いたい。思いたいのだが、これがジョーンのように思考を放棄したが故の幸せの思い込みであったらという恐怖が足元にはいよってくるのに、背筋が凍る思いがする。

それなのに、ああ、それなのに。

自身の命をかけんばかりの道ならぬ恋に身を焦がすエイヴリルに「あなたは何もわからない子供!あなたの愛は汚らしい!」と決めつけ暴言を吐き続けるシーンを読み返し、ウェっとなる。本のページから毒をぶっかけられる。

もうひとりの娘にも「あなたは子供なのだから、あなたの人生のその全てをこの母が!愛によって決定してあげる!」などと子の人格を無視した宣言をするシーンを読み返し、ウェっとなる。本のページから毒をぶっかけられる。

子供が病気だ!ただちに駆け付け看病してやらねば!家の中を整えてやらなくては!母親として!立派な母親として私は偉いことをしている!とご満悦のシーンを読み返し、ウエエエエエエっ!となる。本のページから毒をぶっかけられる。

自分がされたことが次々とよみがえり、小説とシンクロして、めまいがせずにはいられない。

そして「ああ、あの時母はこういう気持ちだったのか」とやっと気づくことができたのだ。

知りたくない、不都合な真実から目を背ける人

母が祖母から「夫」を課せられたように、娘の私は「妻」と「母の二回目の人生ー強くてニューゲームー」を課せられた。しかし、私は激しく抵抗し、逃げ出すことに成功した。母からすれば自分が身を捧げて「母の夫」をやり遂げたと言うのに、さぞかし私を許せなかったであろうと思う。

そんな母は、私の話など全く聞かなかった。むしろ、自我があるのが不思議で仕方がないと言った様子で、あなたはなぜ朗らかで優しくておしゃれを楽しむ素敵な娘ではないのか、なぜいつもニコニコしていないのかとDV夫のようなことをしきりに尋ね、娘の人生の全てを「自分の二回目」で塗りつぶし、それを嬉しいと感じる人形にしようと一心に励んでいた。

母に罪悪感があったのかはわからない。ただしばしば「私はあなたのためを思っている。世間のことなど何もわからない子供なのだから、わからないなら黙って母の言うとおりにしていれば幸せになれる」と、激しい暴力を伴いながら言っていた。

暴言で娘の人間性を否定し心を折り、暴力と経済DVで二度と自我を持たないようにする。再び立ち上がり自分の意見などというものを持たないように、徹底的に痛めつける。そうでもしないと、あなたが間違った道へ行ってしまう。親として身を挺してそれを止めなくてはならなかった。あなたのためにどんなひどいことをしても、そうするしかなかったのよ。あなたが反抗するから。あなたを殴りながら、私は心の中で血の涙を流していたのよ。あなたに謝りながら殴っていたのよ。

とー。

今思い出してもどうだろう。狂っていると思わざるを得ない。我が母ながら、いい塩梅に狂人だ。

母が私に与えるものはこけしだとか、千代紙が貼られた小物入れだとか、ハート模様のセーターだとか、何百万円もする着物だとかであった。それらは全て、自分が娘時代に欲しかったものばかりなので、あきらかにそれは「強くてニューゲーム」であったのだ。しかも私はそれらを平身低頭し感涙にむせびながら受け取り、母を大好きにならねばならなかった。

自我を否定された私はごく普通の、いち人間の反応として、ただ苦しく、親の願う通りになれないことに悲しみを感じていた。だがその苦しみや悲しみが、母にとっては「あってはならないもの」であったのだ。なぜならこんなにも母親から愛されているのだから、悲しみを感じる方がおかしいことだからである。

娘が苦しむことで、自分がやっていることが間違いなのだと気づきたくないのだ。だから娘は苦しんではいけないのだ。こういう思考だ。

母は、自分の母に愛されて、欲しいものをいっぱい買ってもらいたかったのだろうと思う。だから私にそうしたのだ。なんてかわいそうな人だろうか。私はあなたではないと言うのに。

少女時代の母を、今おばさんになった私が抱きしめて、おいしいものをたくさん食べさせて、少女が欲しがる可愛くてキラキラしたものを買い与え、満たされて成仏させてやりたいと思う。だがそんなことはかなわない。

私はこの小説で、母はあのときこの時、「自分が娘に悪いことをしたのだと傷つきたくないし、真実を知るのは面倒くさく、コストのかかることだったので思考を放棄していた」のだ、とようやく理解できた気がした。

彼ら彼女らは、白いものがあるから白だと思わない。

「あの白いものがあることで、自分の心や面子が傷つくので、あれは白ではないし、あるいは娘が白く塗ったに違いない」というような、決して真実にたどり着かないような難解な思考の迷路をたどるのだ。

だから私の母はよく言っていた。

「あなたがそんな生意気な口を私に聞くのは、私が母親であなたを見捨てないと思って、好き放題言って、私を傷つけてもいいと思っているからよ。それは母親に対する甘えなの」

「あなたは家以外の所で彼氏や友達と喧嘩したのでしょ?そしてむかついているから、今母親に八つ当たりをしているだけ」と。

いや、今私は、今あなたが私に放った恐ろしい暴言や暴力についてやめてほしいと抗議しているのであって、存在しない彼氏や友達と喧嘩などしていない。まずことを起こしたのはあなたなのだと説明すると、

「私はあなたのゴミ箱じゃない!外であなたが傷ついたなら、それはそこで解決してきて頂戴!私をゴミ箱のように気持ちを捨てる箱にしないで!!」

と、なぜか神の天啓を受けたかのように、確信を持って言ってのけるのだ。あくまでも、娘が私を責めるのに一切の心当たりがないというスタンスを崩さない。

たった今、自分が娘に対して行った恐ろしいことを、まるで見えていない、一切がそのようなことはなかったかのように話すのは理解しがたく、恐怖を感じたものだった。そしてそれは私が泣いて土下座し許しを請うまで続いた。

私は母から見て、気まぐれで冷たい、いつなんどき爆発のように怒り出すかわからない、母の愛がわからない、親不孝で気難しい子、という位置づけだった。(爆発のように怒り出すのは私ではなく母だったのだが)

どんな時も、どんな事も、自分は決して娘を傷つけていない、立派な母親なのだから、それがわからない子供の方がおかしいというスタンスでなければきっとおかしくなってしまう自分を取り繕っていたのだろう。

そのためには平気で嘘もつくし、他人の心をひきさいて、それを自らの傷口の絆創膏にしてしまうことにためらいがない。

母はものすごい嘘つきで、その嘘に周囲の人々が振り回されていた。話すことのたぶん…私の体感では7割なので、実際には半分くらいが嘘なのだろう。

その全ての嘘は、「嘘も方便と言うものよ」、と言って正当化されていた。この場合の方便というのは、「病身のおばあさんが飼っていたペットが死んでしまったことを、おばあさんの病状がこれ以上悪くならないように隠す」といった他人のためにつく嘘ではなくて、むしろ真逆で「他人から少しでも責められないためにつくごまかし」の事を言う。

母にとって都合が良くなる嘘が、「方便」として良い事のように使用され、目の前で起こっていることの受け止め方や、やることなすことそのほとんどすべてが、一般的なそれからかけ離れていた。

例えば金庫のカギを金庫にしまって別の方法でロックして、その暗唱番号を変えてしまう。暗証番号を教えたとしても全く違う番号を別々の人に言っていた、というような。いわく、金庫の中身を誰にも取られないようにするには、そうするしかなかったそうだ。自分が死んだら、便利屋を呼んで金庫を壊すようにと言っている。あまりにも合理的でない、理解できない行動だ。なにが本当で何が嘘なのかもわからない。こうして親族を煙に巻くことで、何を得ようとしているのか。彼女のこのような不可解な行為によって、多くの人が迷惑をこうむった。

いや、一般的な思考行動、受け止め方からかけ離れるからこそ、嘘になってしまうのだ。だから本人は嘘つき呼ばわりされるとひどく憤慨したものだ。嘘をついている自覚がないのだから。だから金庫の暗証番号を全てまちがったものをそれぞれに伝えたことも、「嘘も方便」と堂々と言ってのけるのだ。

そうだ、「嘘も方便」の使い方さえ真実から目を背け、自分の都合のよいように捻じ曲げているではないか。

このような、ごく一般的な行動からかけ離れた思考法をする人が自分の身近にいた場合、こちらは大変な消耗を強いられる。

そしてこの小説の主人公ジョーンは、ある意味自分に嘘をつき、真実を自分の都合のよいように捻じ曲げる。思慮が浅く、ものごとをしっかり受け止めて深く考えることを嫌がるので、自分が一番楽で傷つかない選択をし続ける。

エイヴリルの駆け落ちを止めるシーンで、夫婦たるジョーンとロドニーの言っていることのなんとかけ離れた内容であることか。それにジョーンは本当はうっすら気が付いているのだが、気が付くとまずいことになるのでしらんふりを貫く。

自分の夫がある女性と1・2メートル離れて座っていたのを見たときに、ジョーンは本当はピンと来ていた。この二人はお互いを求めあっているが、互いに既婚がゆえにあやまちを犯さぬよう、離れて座っている。夫が本当に愛しているのはこの女性だとわかっていたから、そっとその場を立ち去った。なのに、それを砂漠のど真ん中にくるその日まで、思い出そうともしなかった。深く考えて真実を知ってしまいたくはなかったから。

病身の自分の元へ取るものもとりあえずかけつけた母親。娘思いの誇り高く立派な母親。感謝されて歓迎されたかったプア・ジョーン。

知りたくない、不都合な真実から目を背ける人たち。

でもそんな彼女「たち」に、他に一体どうすることができただろうか?

そんな人の心理や思考方法がこの小説で、今から遙か昔の1944年に書かれた小説で、私の目の前で解体される日が来ようとは…。

この小説は、たぶん長い間、心にささってしまって抜けないだろう。

私のような人間には特にそうだろう。

今私のそばにいてくれる人たちに感謝し、その気持ちを尊重し、関係を大切にしなければと強く思った。


追記

これらの感想を書いていて、誰かを救うという行為は、大量に自己のリソースやカロリーを消費することで、そうそう簡単にできることではないのだと改めて感じた。

愛が無ければ、救いたいと思えない。

確かにこれでは、愛を喚起できそうにない美しくないものが救われる事などないのではと重い気分になった。

恐ろしい小説だ。