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忠告するな

私の欠点は、望まれもしないのに忠告したがる事である。

これは短所だと思ってはいるが、ついつい口に出してしまう。たまには感謝される事もあるが、嫌われる方が断然多い。こちらは良かれと思っているのだが、相手はその逆で、我慢して聞くか不満をくすぶらせる。夫婦喧嘩の中に入って「一番良いのは、さっさと離婚することだ」とやってしまい、両方から、えらく憎まれたこともある。

何も悪い事をするわけではないのに、何故人は忠告を嫌うのだろうかと、ずっと疑問を感じてきた。本当の事を言うから悪いのか、とも思った。

最近読み直した加納又男氏の「言葉と運命」という本の中に、次の一節を発見した。「言葉そのものも自己主張すなわち他に命令することに根源を発する。『この花は赤い』と物事を述べるのも、本来は「この花は赤いということを知れ」という事である」

ここに至ってようやく分かった気がした。つまり、忠告は自分の意見を主張することであり、その根源は命令なのである。忠告を発する方と受ける方とでは、立場が違う。たいていは、忠告する側は知識、技術、経験、地位、権限など、受け手よりも優位にたっていることが多いので、基本的に「優位に立って命令する」行為なのである。

言われた側が、「あんたにそんな事を言われる筋合いはない」、と反発するのはまことにもっともな道理である。

だが、忠告したがる癖はなかなか治らないものだ。ゴルフの練習場へ行くと忠告病患者だらけである。頼まれもしないのに人のスイングをあれこれ批評しては、教えようとする人が、まあ何と多いことか!生徒10人とすると、志願のコーチ5人くらいはついている。「最後まで玉を見てない」「スインングの軸がぶれている」「クラブの握りが被せすぎ」「トップスピードが遅い」「かかとが浮く」「ヘッドアップが早すぎる」などなど。こういう光景を見ると、上達しないのは本人のせいではなく、おせっかいの志願コーチ達がてんでバラバラに「いじくる」からだと思われる。

前述の加納氏は、忠告という行為について詳細に述べたのちに、イギリス人のユーモアを高く評価しながら、次のような諺を引用してこの章を結んでいる。

私は忠告する。それは「人に忠告するな」と言うことだ。(イギリスの諺)

☞『迷いの時代に』より「忠告するな」抜粋


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