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宙に舞う

初めてのnoteとなるわけだが、初心を書き記しておこうか。今の思想なり考え方を残して将来の糧にすることと、現在の思考を深めることを目的として書いている。宙に舞ったたくさんの紙を集め整理するように頭の中を整理しよう。稚拙な文章しか出来上がらないと思われるがそこはご容赦願おう。

常日頃思っていることであるが私は苗字という文化が嫌いだ。
親から授かった「名前」があるのにわざわざ苗字で呼ぶことが好きではない。苗字には家族という集団への帰属意識を深める効果があることは確かであるが、その帰属意識に何の意味があるのだろうか。近年しばしば問題になっているが、結婚した時にはどちらかの苗字は相手のもので上書きされる。
そんな苗字に「自分」の呼称としての価値はあるのか?同じ名前であろうと一人ひとり違う思いでつけられた名前、こちらには大層価値があると思う。
私には、ヨグという名前もある(高校3年間の皮でもある)が、大学では使うことはなくなりそうだ。皆が名前で呼んでくれて嬉しくもあり「ヨグ」と呼ばれることもなくなるのか、と寂しくもある。しかし僕はこの呼び名を風化させずにしまっておこう、あまりの思い出がつまっていて到底捨てれたものではない。甘く酸っぱくそしてとても苦い青春の日々を思い出す鍵となってくれるから。いつか高校時代について語ることもあるのだろうか、少々恥ずかしい気がする。

さて、そんな思想は置いといて、最近強く印象に残ったことについて話そう。ただの日記になるが一回目ぐらい許してくれ。自由が丘のベンチでパンを食べていた時のことだ。となりのベンチに一人の女性が座りに来た。彼女は明らか仕事終わりと見れる格好をしていて、片手に缶ビールをもっていた。そして座るとおもむろにビールを飲みだし、物思いにふけるかのように上空を見つめていたのだが、その様子に強く惹かれた。しばらくして彼女は誰かに電話をかけ、話をしながらビールを飲む。ハイヒールを脱ぎ、ベンチで体育座りであった。(ちなみに写真の青い服の女性だ。)別に容姿が整っていたから惹かれたわけでもない、ただただ仕事終わりにビールを片手に友達に電話をかけ、物思いに耽る。その様子に私は、そうだな、若者らしく「エモい」と感じたと記しておこう。最近まで忙しくて生きることに精一杯で周囲の様子を気に掛ける心の余裕がなかったが、何気ない日常の中でここまで惹かれるものを見つけられるぐらい心に余裕ができたことに若干の安心感を覚えた。周りの人の心情の変化にすら気づけなくなっていたころに比べると今は幾分かマシな状況にあるといえるだろう。疲れていると物理的にも精神的にも視野が狭くなるというのはディズニーに行ったときに身をもって体感をしたわけだが、精神的視野は広く保って生きていきたいものだ。最近あまりに周りのことを考えずに生きている人間が多いと感じる(自分も含めて)。人を思いやることができないわけじゃない、ただただ思慮が浅いだけなのか。人の思考を読むなんてそんな傲慢な行為できるわけじゃない。それでも。それでも最低限の気遣いをもって人と接していきたい。一度間違えたことを二度繰り返すなんてそんな卑しい人間になりたくない。

自分勝手なノートとなったことは明らかだが、ある程度すっきりした。
まだ大学生活は始まったばかりだ、気長にいこう。
まだこの文章を誰に見せるかを決めていないが、少なくとも選んだ人間には信頼をよせ、一定以上の期待をしているとだけ記しておく。なかなかな上から目線だ、うむ、傲慢だ。こんな私を許してそばにいてほしいと願っている。また信頼と期待についての文章は書こう。
それではまた。


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