見出し画像

サックスと私。一生ものの趣味を通して自分と向き合う

ジャズへの挑戦

 中学の吹奏楽部を引退して約10年、めっきりサックスとの縁は薄くなっていたのだけれど、初めてジャズの世界に挑戦することにした。
 吹奏楽の経験者ならわかるだろうが、吹奏楽やクラシックの世界とジャズの世界は大きく違う。サックス・トランペット・トロンボーンが吹けると一口に言っても、ジャンルが違えば奏法・拍のとり方・お作法も異なり、まるで違う国の言葉のようなものなのである。
 今日は私自身の決意表明の意味も込め、これまでのサックスとの付き合いと再び向き合うことに決めたきっかけ、そしてなぜジャズに挑戦するのか?ということについて書いていきたい。

私の音楽歴

 私は音楽と縁の深い人生を送ってきた。少し長くなるが、まずはその遍歴を説明していきたい。
 5才~中1の頃にピアノを習っていて絶対音感を身に着けた。ピアノは好きというよりも教養を身につけるような意味合いが強く、当時から練習もそんなにせず一線を引いた関係だったように思うが、中学・高校と合唱の伴奏などをするようになった。でも伴奏しながら歌っちゃうくらいだったので、やっぱりピアノじゃ物足りなさがあったのかもしれない。笑
 中学生になる時には「スウィングガールズ」や「のだめカンタービレ」に代表される吹奏楽ブームにも後押しされ、吹奏楽部への入部を決めた。母からは「吹奏楽の練習は厳しいよ、それでも大丈夫?」と言われたが、覚悟を決めて入部届を出したことを覚えている。実際、練習は結構ハードだった。知っている人も多いとは思うが、吹奏楽部は体育会系文化部であり、毎日の筋トレや肺活量のトレーニングは欠かせないし、廊下は体力づくりと時間短縮のために常に走っていた(学校によっては普通にランニングが練習メニューに組み込まれている)。
 高校でもサックスを続けたかったが、吹奏楽部のレベルが高くなかったことと、合唱の発声ができるようになりたいという理由から、合唱部に入った。全国レベルの部活とは聞いていたが、そこは吹奏楽部以上に過酷だった(話すと長くなるので割愛するが、今までの人生で一番辛い時期だった。黒歴史である)。
 大学ではもっと自由に楽しく歌を歌いたいと思い、アカペラサークルに入った。しかし周りは実力も音感も様々、本気度の強い人から気が向いたら歌えばいい程度の人までやる気もばらばらという状態で、自由ながらも不完全燃焼感があったように思う。
 就職してからは忙しさもあり音楽との縁は切れたかのように思えたが、それでも時々ピアノやサックスを吹きたくなるときがあった。サックスについては一応楽器が手元にあった。中学を卒業するときにどうしても楽器から離れてしまうのが嫌で、楽天で探し当てて父親に懇願し買ってもらった2万円の中国製激安サックスである。いつのまにか年に1-2回吹くかどうかくらいになっており、ケースが埃を被っているのを見て心苦しくなることもあった。
 ある時サックスの個人レッスンに通い始めたが、月1のつもりが数ヶ月、半年と、全然行かなくなってしまっていた。吹く場所がないのが原因だった。場所というのは家では騒音になるので吹けないといった環境のこともさることながら、バンドなり楽団なり、継続的に演奏できる機会やコミュニティのほうの意味あいが大きい。会社の管弦楽団やネット上のメンバー募集をみても、サックスはどこも大抵埋まってしまっていた。個人レッスンも楽しいのだが、やはり演奏する機会や目標がないと続かないことを痛感した。

趣味はいつでも待ってくれている

 それなのになぜまたサックスを向き合うことになったのか。きっかけはなんのこともない、朝テレビで流れたサックス四重奏を耳にしたことだった。その日のうちに初心者向けセッションバンドを探し当てて練習に参加し、ジャズをやろうという気持ちになるまでに至った。
 実はこうしたきっかけで楽器を手に取ることは何度かあった。個人レッスンを始めたときもきっかけは街中でサックス四重奏の生演奏を聴いたことだった。私は趣味が広く浅くたくさんあるタイプなので、熱が冷めるのも急だったりするのだが、それでも何度もやりたくなるということは心から好きだからこそだと思うし、熱量の増減こそあれ、趣味はずっと自分の傍にあるし、いつでも戻ってくることを待っていてくれるのだ。趣味は一生モノとはこういうことかと理解することができた。
 そして、いつでも戻ってくることを可能にしてくれていたのは、中国製激安サックスだった。修理ができるか楽器屋さんに聞いても断られてしまうようなあまりおすすめできない楽器なのだけれど、吹奏楽を卒業してもサックスと別れたくないという私の思いが引き合わせてくれ、かつ父が厳しい経済状況の中でも買うことを承諾してくれたという、思い出の楽器。埃を被ったり時々急に陽の光にさらされたりしながらも、ずっと傍にいてくれた。楽器がなければ容易には戻れなかったかもしれないと思うと、父にも楽器にも、過去の自分にも感謝している。

正解のある音楽

 さて、ここからはなぜジャズなのか?というところについて語っていきたい。
 これまで話したように色々な音楽を経験してきたわけだが、ずっと共通していたのは、音や演奏に「正解」を求め続けてきたことだ。5歳で習ったピアノから高校の合唱まで、常に先生や顧問から「正しさ」「美しさ」の指導を受けてきた。コンクールや部活の大会が目標となるとそうなってしまうのも当然なのだが、音楽を「楽しむ」のでなく、誰からも批判されない、あるいは称賛されるような「正しい演奏」「よりよい演奏」を追求しつづけてきた。
 それが当然のこととしてインプットされてきたからこそ、本来自由であったはずの大学のアカペラにおいても自分と周りのメンバーに音程・ハモり・発声の正しさを押し付けてしまったことは、今となっては大きな反省である。サックスの個人レッスンでも同様で、先生は音楽の楽しさを大事にしてくれる人だったのに、私は無意識に正しく吹くことばかり考えていた。(この時期いわゆる「鼻抜け」現象に悩まされた。サックス吹きで同じく鼻抜け現象に悩んでいる人がいたら、プレッシャーなどによる体の力みがないか確認することをおすすめする。)
 正しさにこだわってしまう理由はそれだけではなく、音大に進んだり高校・大学でも吹奏楽を続けたりしていた同級生たちの影響もあるようだ。中学の頃と変わらず、またはそれ以上に練習に励む彼らの演奏はきっと私の演奏よりはるかに上手になっているだろうと思うと、自分にはもう音楽を語る権利がないような気がしていた。しかも音大に進んだ同級生は当時から音楽を素で楽しむ一方で練習はあまり真剣にしないような人だったので、その同級生にすら追い抜かされていると思うと、心のやり場がなかった。

ジャズは自由?

 せっかくサックスが吹けるのだからと、吹奏楽をやっていたころからジャズのことは意識していた。しかし、吹奏楽で良しとされる丸くて響きのある音色とは全く方向性の異なるジャズの音色をどう捉え評価し、どの方向性を目指していくべきなのか、私は今も判断しかねる。はなから正解はないのかもしれないけれど、少なくとも著名な演者にはそれだけの理由があるのだとしたら、一つとは言い切れなくとも人を惹きつける演奏とそうでない演奏は存在するように思う。
 ジャズにはそんな難しそうな印象があるが、逆にいうと個性や味がものをいう世界であり、それを「自由」と捉えることもできる。事実、ジャズをやっている人にコツをきくとかなりの確率で「自由に吹けばいいんだよ」という答えが返ってくる。吹奏楽育ちは口を揃えて言うはずだが、自由というのが一番難しい、、。しかも、自由でいいよと言われて参加したセッションは暗黙の了解的な要素多いし、定番曲はちゃんと知ってないと吹けないのは事実。難しさも切り口によって異なるのかもしれないし、素人と玄人でも考え方は違うのかもしれない。

自分の汚い部分を直視すること

 ジャズに対するイメージは人それぞれかもしれないが、私にとってのジャズは時に軽快で、時に荒削りで、時に艶かしく、時に退廃的でと、様々な感情を包み隠さず音にしているという印象である。かっこいい!という単純な憧れもあるのだが、クラシックや吹奏楽と異なり多様な表情が許されることから、自分のスタイルや音を見つけて追求できるかもしれないという、多様な選択肢や可能性を感じている。
 自分の目指すジャズを追求する過程は、そのまま自分探しにもなる気がしている。感情を包み隠さず音にするには、大前提として自分の中の汚い部分や嫌な部分も直視し、恐れずに表現することが必要となるはずだ。私は昔から本当の感情がわからないと人からも言われるし、自分でもわからなかった。そしてその原因が、優等生やいい人を演じたり、自分の中でダメな自分を許容したくない・認めたくない気持ちがあって人にも見せず自分でも蓋をしていたことなのではないか、と最近気がついた。自分の欠点や弱さ、恐れを直視してありのまま受け止めること、それを恐れずに音に乗せて表現することが、自分らしいジャズ、そして自分らしい生き方にもつながってくるのではないかと思ったのだ。

それでもやっぱり、ジャズを知りたい

 仮にジャズが本当に自由だとしたら、今までいろいろなルールや正しさに縛られてやってきた私の音楽は何だったのだろうとショックを受けるかもしれない。反対に想像以上に難しかったら、途中で諦めることもあるのかもしれない。
 しかし、難しさがどうであれ、先のことがどうであれ、どうせまたチャレンジしたくなるときがくる。サックスは私の趣味でありつづけるし、そうである以上ジャズへの興味は避けることができない。もし途中で挫折したとしても、ジャズの難しさがどこにあるかがわかるだけでも成果となるはずだ。
 加えて、以前はただ吹きたいという独りよがりの欲求が強かったのが、楽器を一つのツールとして様々な人と繋がりたいという気持ちが大きくなってきて、ようやく正しさの世界から楽しさの世界に移る兆しが見えてきた。英語は話すことが目的でなくコミュニケーションを取ることが目的であるのと同じである。サックスを通じて様々な人と出会うことが、これからの私の人生の道標を増やすことにもなるだろう。
 私の思い描くジャズへの妄想が実際どうであるのか、すぐには答えが出ないが、自分なりの解釈が得られるまで時間をかけて検証と研究を続けていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?