バーチャルな存在とTwitter

八朔ゆずがにじさんじを引退した。

普段からいろいろと追いかけていたわけではない。けれど、最後の配信は見に行った。それも、タイミングが合ったからだけれど。

まぁ、野次馬根性と言われてしまえば、特に反論はない。

私はTwitterが大好きなんですよ。

脈略が死んだ。ただ、Twitterがなければ、バーチャルな存在がここまで広がることはなかったと、そう断言できる。

シャニマスのキャラクターが公式Twitterに降臨する企画において、そのリアルな手触りが話題になっていたけれど、そこに「居る」感じを表現するのにTwitterは本当に向いている。

タイムライン上に表出するものとしては、そこに我々となんらレベルの差はないのだから。

好き勝手に目の前を流れていく言葉を眺め続けて、一方的によく知った気になっている人が何人もいる。それが本当に心地よくて。

そこにバーチャルな存在が自然と混ざるようになってきた。

土台すべての配信やその他の活動を追えるはずもないけれど、存在としての言葉を視界の端に捉えられるだけで、どこか満足だったりもした。

(薬袋カルテのTwitterムーブ、距離感の掴み方は素晴らしかった。余談だけれど)

そろそろ話を冒頭に戻すけれど、「特別なことは何もなくていいから、そこに居てくれ」と思うわけなんですよ。

八朔ゆずの引退理由は咳のミュートをミスったからだけれど(※違います)、引退に際してはどの場合も「活動として続けることが難しくなった」理由が多かれ少なかれあるのだろう。

その理由を特に云々するつもりはないけれど、改めて「引退」という状況に出くわしたとき、やっぱり、ただそこに「居て」欲しいんだな、と思った。

バンドの解散が発表されて、ラストライブの動員数が激増して、「ここにいる人たちが最初から来てくれていれば」みたいな発言から、「見れる内に見ておけ」というお決まりの文句に繋がる。

願わくば、そんなこととは無関係に、ただそこに「居れ」ないものかな、と思う。

可処分時間の奪い合いの果てに、何かのきっかけで存在がクロスしたのなら、それはそれですごいことなので。

次の交わりを気長に待てるように、ただそこに「居て」ほしいと思う。

Twitterは今のところそういう場所なので、(例えどれだけ地獄が頻出するとしても)私は好きなんですよ。

こちらは気が向いたら会いにいくから、どんな状況であれ泰然自若としていてくれ、というのは随分とわがままだとは自覚しているけれど。

アニメ『どろろ』で最初のEDテーマになったamazarashiの『さよならごっこ』は、どろろの世界観に寄り添いながらも、「別れ」という事象のど真ん中を射ぬいていったな、と思っていて。

今日も少しだけ自分を騙しながら、「離れ離れになるってことは 一度は一つになれたかな」という言葉に救われていたりする。


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