見出し画像

「みんな違ってみんなダメ」な友人との再会

 最近、私は広島県の北西の方で中国電力の鉄塔下の草刈りの仕事をしている。現場はほとんど島根との県境だ。そこは私が以前、ヤモリーズとして活動していた津和野町と近い。そう言ったわけで先日、仕事の後に津和野町を訪れ、当時特に仲の良かった同僚と会って夕食を共にした。
 3年ぶりくらいだったが、離れていた年月の長さを感じず、すぐに打ち解けて近況などの話に花を咲かせた。

 私は人とあまり仲良くなれない人間だが、その時の同僚(2人)とは非常に馬が合い、お互い腹蔵なく話すことができる。
 同僚の内の一人が「みんな違ってみんなダメ」という秀逸な表現をしたが、私たち3人は正に「みんな違ってみんなダメ」の3人組だ。ライングループも「ずっこけ三人組」だし(笑)
 この3人で仲良くやっていけているのは、そんな風にお互いの「ダメ」な部分を隠さず晒すことができ、それをお互いが許容できるからだろう。「俺も駄目だけどお前も駄目だな(笑)」と言い合える仲というのは、やはり開放的というか、何もストレスを感じなくて済む。お互いに駄目出しをちゃんとできるし、逆に褒められた時はそれはお世辞でないと分かるので素直に嬉しくなる。

 そういえば、私のnoteをその二人も読んでくれていた。
 そして私のnoteを評して「自分(私)の汚い部分を惜しみなく晒しているのがすごい」と言ってくれていたのがとても嬉しかった。私がnoteでまさに行っていることを汲み取ってくれているのが嬉しかった。

 私はnoteで自分の心の汚い部分を敢えて晒すようにして記事を書いている。以前、外見的な美しさを「皮一枚の話だ」と感じるという記事を書いた。

 人間関係においても同じで、普通、人は相手との関係をなるべく綺麗に保とうとする。それは心の外側に「皮一枚」の保護膜を張るようなものだ。その「心の皮一枚」同士で人は相手と接する。
 それは相手を不快にさせないため、また自分が不用意に傷つかないために必要なことだ。社会的動物である人の知恵とも言えるだろう。私も普段人と付き合う時はそうしている。
 だが、noteでそれはしたくない。もとより誰かに向けて書いている文章ではないのだ。自分が納得できる文章を書きたいというのが一番の動機だ。それなのに「心の皮一枚」を覆った文章を書いても仕方がない。納得のできる文章などにはならない。
 なので、私はあえて「皮一枚」の下の心を晒すように記事を書いている。そしてそれが二人に通じているのが嬉しかった。


 また、私がヤモリーズに在籍していた時にお世話になった二人の先輩の内一人が、私のnoteを読んでくれていることも知って嬉しくなった。私のnoteにスキもコメントもしなくても、読んでくれて「良い」と言ってくれる人がいると知れたこともとても嬉しかった。


 私のnoteは基本的に私に向けて書いているが、それでもやはり良いと思ってくれる人がいるとモチベーションが上がる。そして良いと思ってくれる人は多くなくて良いんだな、と思った。
 かつての同僚二人に「髙橋さんのnoteは本当に良いですよ」と言われただけで報われた気になった。「間違ってなかったんだな」と思えた。
 
 「間違ってなかった」という思いは大事かもしれない。あの二人は決して私に対しておべんちゃらを言う人間では無い。本心で面白いと思ったから面白いと言ってくれたのだろう。そして今後、私のnoteが何か方向性を間違えてしまった時は、彼らは遠慮なく「つまらなくなった」と言ってくれるだろう。そういう安心感がある。

 
 リアルの友人で私に「心の皮一枚」の下の姿で接してくれる人が、幸いにして何人か私にはいる。noteに限らず、私が人生の方向性を間違えた時は、その友人たちが正してくれるだろう。
 私は友人は多くないが、私に本気で向き合ってくれる友人を得られたことは私にとって僥倖だ。

 そんな二人との再会の喜びを味わった夜だった。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!