古代人の素顔
英国の大学院にいたころ、アルト君というエジプト人留学生と出会いました。一見すると、アラブのごく普通の青年ですが、ちょっと変わった苗字を持っていました。そのことをズボラに尋ねたわけでははありませんが、何かの折に彼が出自を話してくれたのをよく覚えています。彼はアルメニア系エジプト人でした。
エジプトがまだオスマン・トルコの一部だった20世紀初頭、第一次世界大戦が始まります。このとき、トルコはドイツ・オーストリア側で参戦して敗れました。これをきっかけに600年も続いたオスマン朝は崩壊しました。その前夜の混乱のさなか、国内少数民族でキリスト教徒のアルメニア人は激しい迫害と虐殺に遭います。アルト君のご先祖はそのときにエジプトに逃れ、帰化しました。私はそれまで、そうした人たちがエジプトにいることを知りませんでした。
近代以降だけを見ても、フランスとイギリスによる支配、ムハンマド・アリー朝など、エジプトは複雑な歴史を持ちます。カイロに行くと、エジプトが多民族国家なのがとてもよく分かります。アラブ人とスーダン人(ヌビア人)だけではありません。ヨーロッパ人のような外見のエジプト人もいます。肌も髪も瞳も、色が違なる人々がたくさんいて、宗教も実にさまざまです。その多様性は日本とは比較になりません。なにせ、五千年の歴史を持つ国なのですから。
ところで、日本人の姿って最初はどんなだったと思いますか?誰でも興味が湧くでしょう。でも、この問いに答える前に、日本の最初がいつなのか明らかにする必要があります。当たり前ですが、それを明確にするのはとても難しいですよね。エジプトは古代文明の代表でもあり、三千年も持続したため、この難しい問いを常に投げかけられる気がします。どこからやってきたのか、と。でも、彼らはずっとそこにいたのです。そして、最初があったとしても、彼らの姿はシミのない白色から始まったわけではありません。アフリカとアジアが繋がる場所にあって、エジプトは初めから黒とも白とも言えない中間にありました。研究者として慎重に答えるならば、モザイクの中に黒に近い人もあれば、白に近い外見もあったと説明するしかありません。
誤解を恐れずに、やや時代遅れのコーカソイドという言葉(いわゆる白人のこと。今は西ユーラシア人というらしい)を使って大まかに説明すると、ヨーロッパ人だけでなく、現在のアラブ人、北アフリカ人、ペルシャ人、インド人もこの系統に属します。古代エジプトにも流入したはずです。彫像やミイラを観察すると、得てして、鼻は低くなく、目は大きく、頭髪は癖っ毛だったようです。とはいえ、ギリシャ人のような鼻梁と額が繋がるほどの顕著な面立ちでもありません。理想化された体格は、メソポタミアの王のように筋肉質で頑丈というよりは、細くしなやかで女性的な印象さえ受けます。
肌の色は男性は赤褐色、女性は薄く表現されることが伝統でした。女性と男性で肌の色が異なるのは、遺伝的な形質的特徴ではなく、男は外で仕事を、女は屋内で過ごすという社会的性差の結果だと思います。日本に限らず、アラブ・ペルシャ世界でも、女性と男性の肌の差異は、社会的役割や性の美意識が反映されます。全身を隠す黒衣から覗くアラブ女性の腕は、日本人よりもずっと白いこともあります。つまり、彼らの肌はもともと褐色ではないのです。一方、コーカソイドの特徴を決定づける体毛の濃さについては、観察が容易ではありません。体毛を処理する習慣があったのか、あるいは表現するのを忌避したのか、もともと薄かったのか、胸毛や豊かな髭のある人物を壁画でほとんど見かけません。
とこで、「写実」の意味は字の如く、実際の様子に似せて描写することですが、再現性と必ずしも同義ではありません。つまり、写実的で自然に見えても本物そっくりとは限りません。上のラーヘテプ夫妻の像からは、男女の性差は伝わりますが、際立った個性があるようには見えません。短い首や太い足首はこの時代に共通する様式です。頭部と体の優れた比率と象嵌した眼によって、写実性が際立ちますが、この像は様式美に支配されています。一方、写実性を語るときにお手本のようにいつも言及されるのが、下のセンウセレト三世です。形式が重んじられたエジプト美術において、この王だけはとても個性的で、彼の彫像はすべて苦悶するような表情をしています。大きな耳と狭い額も特徴的で、一目で特定できます。本人に会ったことがないので、再現性は証明できませんが、写実を意図したことは推測できます。でも、個性が強過ぎて、彼の人種的特徴を明らかにすることは難しいように思います。
そして、500年後、比類のない写実描写が出現します。下の王妃ネフェルティティの胸像です。造形、退色、欠損がすべて初めから計算されていたような完成美を誇り、左目の象嵌欠如による非対称が神秘性を帯びる傑作です。彼女はどんな人種に見えますか?
彼女はコーカソイドの特徴を備えていると思います。外国出身だったという説もあるほどです。一方、ほぼ同時代に生きた王妃ティイは、ヌビア人のようにも見えます(本記事冒頭の写真)。ますます答えを見失いそうです。結局、本当のエジプト人を探そうとしても、あまりに長い歴史と変容のうちに本来性はかき消され、私たちは彫像の多様性にただ面食らうだけなのです。そもそも、本来性など存在しなかったかもしれません。それほど、エジプトは初めから人種のるつぼだったといえます。
エジプトは、紀元前7世紀ごろからギリシャ人移民を受け入れて、徐々にヘレニズム化しました。紀元前5世紀にエジプトを訪れたギリシャ人のヘロドトスは古代エジプト人を「色が黒く、髪が縮れている」と表現しています(『歴史』、第2巻、104)。これを根拠に、エジプト人が黒人だったという主張もありますが、ちょっと短絡的と言わざるをえません。中間色のエジプト人をギリシャ人の目から観察したに過ぎないのです。下図のように、エジプト人は自分たちの肌が赤褐色なのを自認していました。
骨を調べる自然人類学もDNAを扱う集団遺伝学も、エジプトの長い歴史を網羅した研究は実現が困難で、科学的解明は進んでいません。それに期待することも今の技術では難しそうです。というのも、すべてが混ざり合って、中間色である灰色が一様に広がっていたわけではないからです。これは、世界中の多民族国家を見ても明らかです。人種を超える交雑がある一方で、同人種が集まる共同体も相変わらず存続しています。ですから、灰色がまんべんなく広がるのではなく、いろんな色が共存するモザイクと表現した方が、人種多様性の現実に近いでしょう。そして、同じ国内でも共同体によって性質は異なり、ときに排他的になってもおかしくありません。その顕著な例が王家だった可能性があります。つまり、王統によその血を入れたくないという指向です。ですから、王族の彫像ばかりを観察したところで、全体の人種を俯瞰することはできないのです。
古代エジプト人は白人か黒人かという問いは不毛という見解が、現在の研究者の間では支配的です。人種の問題は非常に繊細で、差別に繋がる可能性もあるので、慎重にならざるを得ない事情もありますが、それ以上にエジプト人を特定の人種に当てはめるのは難しいのです。ヌビア、リビア、アジア、ギリシャ、ペルシャ、ローマ、アラブ、トルコ、フランス、イギリスの流入を受容してきたエジプトは、初めからモザイクで、今もモザイクなのだと思います。ひょっとしたら、古代人は今のエジプト人と大差ないのかもしれません。同じ土と水で育てば似てくるものだという気もします。人種の違いやそこに優劣を持ち込んで揉める現代人をどこかで笑っているかもしれませんね。
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