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酒とたばこ

酒を飲む人を「左利き」と言う。鑿(のみ)を使うとき右手に持つのは槌(つち)、左手に持つのが鑿(飲み)だからである。時代物の小説や映画などで見たことがあったから、古い洒落であろう。
私が「左利き」だったのは、十年以上も昔のことだった。最後に酒が喉を通ったのは自分史のグループ「おもい川」の一泊旅行の途中に立ち寄った食堂での事だ。
老人会で旅行に慣れた人の企画でバスでの送迎運賃と、旅館かホテルの宿泊、宴会費まで、コミコミ価格で旅行をした。
団体サービスなのでバス一台分の人数が必要だった。高齢の人が多かったので付き添いが加わったり、メンバーの知人が加わったりして人数を満たした。その中の一人が「お水!」と言って私に半分くらい水らしい液体の入ったコップをくれた。
全く疑わず一口。「酒!」と気がついた時には半分喉を通っていた。後の半分を吐き出す事が出来なかった。
その事の少し前「酒を取るか主を取るか」と、牧師から厳しく飲酒をたしなめられて、自治会の飲み会でも酒杯には手も触れなかったのに。その時の酒の味はともかく、戒を破った心の苦さもまた忘れ難い。
二十年以上も昔、アパートの住人(ブラジル人)に頼まれごとをした礼に大振りのコップに一杯、無色透明な酒をもらったことがあった。アルコール60度だという。
これがアルコール度の強さに反して、香りも味も実に美味かった。
味を占めて、外国人ばかりが行く酒屋でそれらしいものを買ったが45という標記があった。
味も香りも前に貰った60度だという酒と同じだった。1リットルのボトルで値段も手ごろだった。
喜んで晩酌にこれを飲んでいたが、この酒一本が終わらないうちに「続けていればアルコール依存症から肝硬変、肝臓癌への近道だ」と確信するようになってやめた。
晩酌は、大きめの缶ビールを週二回と決めてしばらくは続いたが、強い酒は強い魅力を持って人を誘惑する。
近所の酒屋で手に入る強い酒は「樹氷」と「純」だった。中でも「純」のゴールデンラベルは35度だった。
小さなグラスに酌み、口に含んでしばらく味わい、少しずつ、少しずつ喉に流し込む。しみじみ美味いと思った。
              *
H社の小山工場長兼営業出張所長として工業会の飲み会、接待の酒、脱サラしてからは同業者組合の飲み会。仕事を離れた自治会、コミュニティ推進協議会の飲み会。挙げれば限がない。
そんな中で、自慢にはならないが酒量で引けを取ったことがなかった。その代わり二日酔いでは済まないで、三日目まで苦しんだことも忘れられない。
煙草も好きだった。会社の廊下ですれ違った人に煙草臭いとか、ヤニ臭いとか言われた。
会社の庭先にあった社宅の四畳半で昼休みに煙草を吸い、妻と子が煙にむせて、二人ともゲホゲホ真っ赤になって苦しんでいるのを見て、やめようと思った。
ワイシャツのポケットに紙巻き煙草を入れたまま「しばらく我慢しよう」と思った。翌日は「昨日半日やめていたのだから、もう少し」と、我慢した。
その翌日も「昨日一日我慢できたのだから今日も我慢しよう」と、苛立ちを抑えた。
こうして幾日か我慢できた。
紙巻きたばこを友人三人ばかりの間で、「新生」というのが、あまりにダサイと言って「シアンス」と呼んでいた。紙巻きたばこの紙が害になると話題になっていたので、紙巻きを減らすために葉巻やパイプ煙草も吸った。
その時持っていた「シアンス」をポケットから出してみると煙草の紙に染みが出て汚くなっていた。箱に半分くらい入っていたのを捨てて、それ以来一度も買っていない。三十歳の時だった。
「酒はやめたが煙草はやめられない」と言った人がいた。
「酒は飲むがタバコはやめられない」と言った人もいた。
私は両方やめたが、自慢は出来ない。
実は、夢の中でこっそり煙草を吸っていたのだ。
良くは覚えていないのだが、新聞のコラムの中に「禁煙の褒美に夢の中で煙草を吸っている。これが実にうまい。これほどうまいタバコは、どこを探してもない」と書かれていた。
私は禁煙してから初めは一年に二回か三回、後では二年か三年に一回、二十年くらいの間、夢の中で「うまーい煙草」を吸った。
酒は「しまったー。飲んじゃった」という夢を幾度も見た。それも昔のことだ。
                        2020年9月 記
                         題「アルコール」

古い作品を掘りだして記載してきたが、11月11日エッセィの講座で講評していただいたものを掲載する。
 虫干しの中に新しいものを取り上げてみた。

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