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最悪の時期に学んだ最高の生き方【パニック障害克服記】〈後編〉

「来年から5ヶ月間、1人での営業になるから」

年の瀬も近い11月にオーナーから言われた一言だった。

経緯を説明すると働いていた店舗は3人で運営していた。
そのうちの女性スタイリストが産休に入る→復帰までは2人で営業するはずだっだが、もう1人が地元に帰るので年内で辞める→産休の女性スタイリストが帰ってくるのが5月なので、それまで1人で営業という流れだ。

オーナーからその言葉を聞いたとき、正直こう思った。

「何言ってんだこいつ」笑

僕は当然、他の店舗からスタッフが移動してくるものとばかり思っていた。
詳しい事情は割愛するが、今のバランスでいきたいとの事だった。

一気に両肩が重くなって一瞬で色んな思考が浮かんだのを覚えている。
調子は上向きではあったし、お客さんもまだ予期不安と闘いながらではあるがこなせている。

でも0と1は大きく違う。

頭の中が「もし〜」で埋め尽くされていった。
最悪のシュミレーションが脳内で繰り返される。

だからといってすぐに辞めて他に行く方がさらにハードルが高い。

闘争か逃走か。

ピンチはチャンス。こういう時はこんな簡潔な言葉が支えになる。
これは何かのサインだと。

僕は闘争を選んだ。

やってやるという気持ちと、どこか半分はどうなっても知らないという反抗的な気持ちも含まれていたのかもしれない。

一人でやるということは、もう自分の事だけではなくお店の事も考えなくてはいけない。

お客さんをこなすではなく増やすフェーズに入ったのだ。



2023年1/5、僕は出勤前に近くのお寺に参拝しに行った。
ここはもう神様に頼ろう。

「どうか何事もなく1日が終わりますように」

そこからは毎日がこの気持ちだった。何事もなく1日を終わりたい。営業が終わって帰る時に今日が無事に終わったことに感謝した。

一日一日を終える度に、その日が自分にフィードバックされて蓄積されていく。
やっている仕事内容は前と変わらないはずなのに、【クリアした】という感覚が僕の背筋を伸ばした。

日々をこなす事に精一杯だった。
でも、日を追うごとに思考が変化している事に気づいた。
朝の散歩は不安な気持ちと、パニックの事を考えながらの始まりだった。
それが今日来るお客さんの背術の流れや、その日1日のやる事のシュミレーション、店を運営する上で覚えなくはいけない事に変わっていった。

正直やる事があり過ぎた。

だがそれがいい方向に向いたのだ。

パニックに感する事を考える時間が減っていった。


「パニックよ、俺はもうそれどころじゃないんだよ」

そして、僕は一人という営業スタイルが向いていた。

周りを気にせずお客さんと好きな話をし、一人一人と向き合う。初めて経験した一人で営業するという時間はこんなにもストレスがないものなのだと実感した。

その空気感が伝わったのか、月を跨ぐごとに客数も増え売り上げも上がっていった。
そして、営業中も予期不安を感じることが少なくなっていった。
当然、その時期の調子もあるし、気候や気圧に左右される日もある。
だがデフォルトの不安感がかなり低下していた。

ある日、僕はふと朝の通勤に電車で行ってみようと考えた。今ならもういけるんじゃないかと。

あの日仕事に行けなくなった日から通勤の電車には乗っていない。
朝は人も多いし、苦手な途中停車ポイントもある。さらに地下鉄を経由するのでずっと避けていた。

その日の朝、自分に問い掛ける。

「出来そうか?」

大丈夫。行ける。行こう。

正直乗る前はかなり緊張した。水を握りしめ、でもあまりスマホは見ないでこの感覚を味わおうとした。

結果はほぼ不安を感じる事なく職場の駅に辿りついた。

駅のホームに降りたとき色んな感情が込み上げ、思わず泣いてしまった。

やっとここまでこれた。みんなが普通にやれている事に僕は2年もかかったのだ。
でも今まで自分がやってきた努力は間違ってなかたんだ。

そのとき思った。

当たり前は決して当たり前ではない。

人間は出来なくなって初めてその重要さに気づく。
今出来ている事が一年後も出来るとは限らない。それは日常の様々な場面に隠れている。
人間がどうしても逆らえないもの。それは時間の流れだ。
今まで蔑ろにしていた小さな大切なものに気づかされた瞬間だった。

パニック障害発症前は、電車に揺られながら本を読むのが好きだった。何気ないあの時間は僕に安らぎを与えてくれていたのだ。
いつしか本なんて読む余裕は全くなくなり、只々いつやって来るか分からない発作という恐怖に怯えながら、時間が過ぎるのを待つ毎日に変わった。

その日の天気を気にし、その日の気圧を気にし、電車の混み具合を気にし、その日の自分を気にする。

ずっと変化を希望していたのに、変化に絶望し、自分で不安の種を撒いては咲かないように拒絶していた。

そんな毎日から解放された時間の流れは早くなったのか遅くなってのか分からないけど、ずっと覆っていた灰色の世界の色は、透明なフィルターへと変わっていった。


今まで気づかなかった事に気づいた瞬間は他にもあった。
それは僕には助けてくれる存在が周りに沢山いた事だった。

まずは姉の存在だ。

僕は今まで家族と縁遠い生活を送っていた。
20歳で一人暮らしを始め、そこからあまり実家に帰ることもなく、家族と触れ合う機会を設けようとしていなかった。
両親の離婚に至る過程で揉め事が多かったが極力距離を取り避けていた。
言い訳を言うなら、忙しすぎて余裕がなかったのもある。

でも、僕が今の状況になり家族に助けを求めたとき姉は真っ先に手を差し伸べてくれた。

正直、パニック障害は理解が得られにくい。なぜなら普段は普通なのだ。
パッとみでは健常者と何も変わらない。でも心は常に不安が渦巻いている。

そんな僕に理解を示してくれた。

自分の家庭があるにも関わらず、泊めてくれて、ご飯を作ってくれて、外に連れ出してくれた。

感謝という念は吐き出したありがとうという言葉と冥王星の彼方で待ち合わせしていた。

ほんとにありがとう。

そして友達の存在だ。

たぶんパニック障害というもののは存在は理解していなかっと思う。

でも、急行電車に乗れない僕と各停で出かけてくれて、高速道路に乗れない僕を下道で遠出させてくれて、会うたびに調子どう?と気遣ってくれたし、普通に接してくれた。
昔からの友人達がこんなに心強いもだということ力が沸いた。

逆に、隠なものには近づきたくない雰囲気を出していた人もいたし、誘われた内容に行く事が出来ず断り続けて疎遠になった人もいた。

今までは刺激という麻薬に取り憑かれ、心地良さというものを否定していた。
それは自分の感情に嘘をついて理論を肯定していた。
自己を虐待する事が成長への道だと考えていた。
でも【楽しい】という感情を優先する事は決して悪い事ではないのだ。

今、会っている友人達はこの先もずっと繋がっているという確信があるし、繋がっていたいと思っている。

これは【縁】だと。

ほんとにありがとう。

そしてこの時期にずっと支えてくれた女性がいた。

その人はずっと「大丈夫、治るよ」と僕に言い続けてくれた。
治ったら一緒に旅行に行こうねと。

1番言ってほしいけど誰も言ってくれなかった言葉、それは「治るよ」だった。

これほどシンプルで心強い言葉はなかった。
治して旅行に行こう。その目標が日々の生活にまた軸を作ってくれた。

その後、家庭の事情で地元に帰る事になってしまい、会う事は出来なくなってしまったが、人1人の存在の大きさを痛感させてくれた人だった。

ほんとにありがとう。


人間は同じ世界に生きているとしても物の捉え方や見え方で、感じているものが変わってくる。
今まで自分が軽視していた【ありふれた日常】には実は様々な幸せが隠れていて、それを見ようとする状態が必要なのだ。

知的好奇心は必要だし、新規探索性の性は変えられない。
でも、今あるものに目をむける事が人生を豊かにする一つの道なのだ。

これはこの6年間で体感した【最悪と最高】だった。

今僕はこの文章を電車に揺られながら書いている。
あの健やかな日常が戻りつつある。
まだ、飛行機や新幹線には乗っていないが日々の生活に全く問題がなくなった。

まさか本当に自分がこの状態に戻れるとは夢にも思わなかった。

もう2度パニック障害にはなりたくないけど、この時期に学んだものは、この先の人生において大きな糧になってくれるはずだ。


最後に何かの縁でこのnoteに辿りついたパニック障害の方がもしいたら。

「大丈夫、治りますよ」




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