やさしさについて
何でこうやって「◯◯について」という芸のない題名でずっと書いているかと言うと、ここにおいては題名によって色をつけないことが望ましく思われるからです。きちんと読み進めないと、私が甲という話題について肯定的なのか否定的なのかがわかりません。これは結論を性急に求める現代社会へのアンチテーゼであり、私自身への戒めでもあり、読者諸賢への私なりのやさしさでもある。そういうことにしておこう。
優しさというのは簡単だけれども、実際にどれが優しさになるのかは難しいから困る。
甲が乙という状況を望んでいて、丙がそれを手助けするとき、丙は甲に優しさがあると言える。ただし手助けすることが長期的に甲の利益にならないとする場合、手助けしないこともまた優しさと言えよう。
さらに、甲に、乙という目標があって、それを第三者であるところの丙が、乙に向けて一見すると(甲または丙の)不利益になるようなことを敢えてするときも、丙は甲への優しさゆえの行動をしたと言える。
この優しさを判断するための根拠は、凡そ結果に依存する。たとえば、あなたは友人のA君と歩いているとき、急にA君に突き飛ばされたとしよう。次の瞬間、さっきまで立っていた場所に目の前の店の看板が落ちてきて、成程危うく潰されるところだったのかと知る。窮地に陥った自分をA君が助けてくれた、これは優しさゆえの行動と言わずして何と言おうか。
ではこちらはどうか。急にA君に突き飛ばされたあなたは倒れ込み、血が出てしまう。丁度あなたが突き飛ばされた場所の足許にはマンホールの蓋が取れてぽっかり穴が開いていたのだが、流血に戸惑うあなたは気づかず、憤慨してそのまま帰ってしまうとする。あなた視点で考えたとき、これは優しさだろうか。
あるいは、マンホールを避けるために突き飛ばされたはいいものの、運悪く自動販売機の角に頭をぶつけ、意識を失って病院に救急搬送され、一時は生死の境目を彷徨ったとしたら? 悪気がなかったのと、優しさゆえの行動なのと、優しいのとは全て違いますね。全てを結果論で語るのも無理があるように思いますが、しかしどうも結果が重要な分野ではありそうです。