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断片的なものたち

年始に「断片的なものの社会学」という本を読んだ。

「お父さん、犬が死んでるよ。」

「犬が好きだったらショックを受けるだろうなぁ…」と、猫派の私でも思う一文からこの本は始まる。社会学者の著者が、多くのフィールドリサーチを重ねた中で「分析できなかった、論文や本にまとまらなかった、物語のかけら」を束ねたもの。わかりやすい結論がつかめるわけではないけれど、この本全体から著者がどれだけ一人一人の語りや物語、それに付随するものを愛おしく思っているかは感じられる。私は「共感」という言葉が苦手だけれど、この本からは「他者を理解するとは、理解しようとすることとは、どういうことか」がずっと語られていると感じた。

この本を読んで、2000年代にあったとあるOLのインターネット日記のことを思いだした。「ブログ」という言葉も、もちろんそのサービスも存在しなかった。そっけないイラストに、彼女からみた日常が描かれる。思い出したように、ある日突然更新される。ブランディングやマーケティングがインターネットにまだあまり入ってこない時代の、あの感じが大好きだった。今はああいったニュアンスをもつ媒体は少なくなった気がする。「効率」「目的・目標」「価値を提供すること」に重きがおかれた現代の社会は、「○○に役立つ7つのポイント」「□□にオススメな5冊」といった内容の方を欲すのだろう。おそらく私もそうだ。

まだ「ブログ」という言葉が社会に存在しなかった頃、私は自分でサイトを作り、日々考えていることを書いていた。当時写真に没頭していて、そのポートフォリオの兼ね合いもあった。働くようになり、気づいたら「日々考えていること」が書けなくなった。「効率」「目的・目標」「価値を提供すること」が大切な企業活動の中で、自分がインターネットの誰かに向けて語りたいことはなくなっていった。とにかく必死で顧客と向き合い、自分のスキルを最大限活かして仕事をした。コンタクトレンズがある日突然入らなくなるほど、残業をした。楽しかった。けれど、何かを失くした気もする。

そんな時にこの本を読んだ。自分の琴線に触れたところはたくさんあるけれど、その1つがここだ。

 私はこれらの厖大な語りを、民族の文学だとか、真の大衆文学だと言って称揚したいのではない。そういう金持ちの遊びは「屋根裏(アチック)」でやっていればよい。ただ、人びとの断片的な人生の、顔文字や絵文字を多用した、断片的な語りがあるだけである。文化的価値観を転倒させてそこに芸術的価値を見出すことはできない。
 そして、だからこそ、この「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない」語りは、美しいのだと思う。徹底的に世俗的で、徹底的に孤独で、徹底的に厖大なこのすばらしい語りたちの美しさは、一つひとつの語りが無意味であることによって可能になっているのである。

なんだかすごく、「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない」語りを、分析されざる断片的な語りを、書いてみたくなった。私は何かを取り戻したいのかもしれない。全くもってそうでもないのかもしれない。

気づいたら、noteのアカウントを作っていた。

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