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北海道/北竜町及び札幌近郊で今はなき農村歌舞伎の痕跡を確認する小さな旅:2023年6月末。写真中心(その3:新琴似歌舞伎―札幌市北区・プラザ新琴似)

札幌から札沼線(学園都市線)で四つ目の新琴似の駅は、構内にカフェを併設したパン屋もあるきれいな駅で、街並みも札幌に程近い郊外という感じで、高架の線路の下を横断して大通りが走り、整然と区画されている。高架の脇を少し歩いてその大通りに入り、数分歩いた所にプラザ新琴似がある。
ここも篠路コミュニティ―センターと同様、資料館や博物館ではなく、区の施設であり、その中に「新琴似歌舞伎」に関する資料が展示されていると、関連する記事で読んでいた。

プラザ新琴似の入り口

なおこの文書とは、一般財団法人北海道開発協会の「開発こうほう」誌の2020年10月号に掲載された高尾英男氏の記事である。書誌情報を以下に示す。

高尾英男 (2020). マイ・プレゼン(幻の「農村歌舞伎」は今~稀少な史料から歴史的意義を再発掘~). 『開発こうほう』. 2020 年 10 月号(通巻686号). (北海道開発協会 広報誌「開発こうほう」バックナンバー2020 (hkk.or.jp))

この記事については別に紹介する予定である。
新琴似農村歌舞伎に関する展示はプラザ新琴似の建物に入ってすぐのロビーで行われていた。下の説明パネルによれば、常設劇場若松館もあり、篠路歌舞伎と並んで札幌北郊に歌舞伎を一時期流通させた。篠路歌舞伎の中心人物が大沼三四郎(花岡義信)であったのに対して、新琴似歌舞伎の立役者は田中松次郎という人であった。

新琴似歌舞伎の説明パネル

新聞の紹介記事もあった。

新聞の新琴似歌舞伎紹介記事

資料はガラスケースの中に収められていたが、係の方に見学に来た旨を告げると、ケースを開けて直接見たり写真を撮ったりしても良いと許可を得た。衣裳やその他実際の芝居のために使用する物品が複数展示されていた。

大坂で作られたと思われる豪華な裃

上記若松館の引き幕もある。物資不足の折には衣裳に変わったという。

引き幕と衣裳

扮装用の鬘や道具か。

扮装用の大きな鬘など

正しくは分からないが、戦の際に身に着ける衣裳(用具)の一部か(?)

芝居で実際に使用されていた衣裳(用具)と思われる展示品

実際の芝居の写真や、役者達の写真も多く展示されている。
下は、いつのものかは不明であるが、「白波五人男」の名乗りの場でのそれぞれの人物の写真の一部である。

「白波五人男」の弁天小僧と日本駄右衛門

同じ芝居の他の三人の写真。

「白波五人男」の南郷力丸、赤星十三郎、忠信利平

下の写真は、新琴似歌舞伎の中心人物田中松次郎の演技の写真。難しいとされる『絵本太功記』十段目(「尼崎の段」)の明智光秀。説明から、晩年のもので、劇場ではなく、私邸で行われたものと思われる。信長を討った後の光秀の凄い迫力が伝わる。

明智光秀に扮する田中松次郎

下の写真は平成10年のものなので、保存会による比較的新しい公演と思われる。

『仮名手本忠臣蔵』の登場人物達の集合写真

次は、比較的新しい芝居の出演者とスタッフか。背景は、「白波五人男」の土手の名乗りの場のようにも見えるが、立っている役者達の衣裳が違うので、別の芝居のものかも知れない。

出現者とスタッフ

脚絆と舞台装置の説明書きか? 吉原を思わせる花街の装置に見える(?)

脚絆や舞台装置図

この展示コーナーの中でも最も興味を惹くのが、以下のような台本の数々であった。普通ガラス越しに見ることになるが、係の方の御厚意により、手で取って見ても、本を開いても良いとのお許しをも得た。歌舞伎や古文書の専門家ではなく素人ですから、と一応断って、じっくりと見せていただいた。

実際に使われていた台本の数々1

真ん中辺の拡大写真。名作、傑作の台本(台帳)が並ぶ。

実際に使われていた台本の数々2

右側の拡大。同じく。

実際に使われていた台本の数々3

左側の拡大。

実際に使われていた台本の数々4

幾つかの注目して拡大してみた。次は、上で出た『絵本太功記』十段目の台本である。大阪の加島屋竹中清助版となっている。

太功記の台本(台帳)表紙

次は、『生写朝顔日記』の簡易な台本と思われる。

『生写朝顔日記』

次の『勧進帳』の台帳には、福助(後の歌右衛門? あるいは現在の福助?)、左團次、團十郎等大芝居の役者達の名前が並ぶが、位置付けは分からない。

『勧進帳』の台帳

文字通りの天才作者並木宗輔の傑作『一谷嫩軍記』の浄瑠璃台本(二段目冒頭?)を開いてみた。

『一谷嫩軍記』の台帳の一ページ

篠路歌舞伎の展示(篠路コミュニティ―センター)には、福内鬼外(平賀源内)の浄瑠璃に基づく歌舞伎『神霊矢口渡』の上演時の写真があったが、こちらには、その浄瑠璃台本(四段目)が置いてあった。何らかの連携があったのだろうか?

『神霊矢口渡』の台帳

中を覗いてみる。四の切―渡場の段。

『神霊矢口渡』の浄瑠璃台本

下の写真は、平成時代に入ってからの復活公演のための台本とのことである。独自に脚本が書かれたようだ。

新琴似歌舞伎平成復活公演の台本

その他、下は新琴似歌舞伎ではなく大歌舞伎の筋書きの冊子か(?)。

東京歌舞伎大一座の役割番附

こちらも東京大歌舞伎の「配役番附」である。現在の歌舞伎座で「筋書」として販売されている冊子と同類のものだろうか? 因みに、南座ではこれと同じ種類の冊子のことを「番附」と呼ぶ。

東京大歌舞伎の配役番附

下は、年は不明であるが、「東京劇場」における公演プログラム。
東京劇場は、歌舞伎座を出て築地の方に向って高速の上の橋を渡った筋向いにある、今は松竹の映画館となっている所か? 昭和初期から終戦後までは歌舞伎の中心であったが、その後映画専門の劇場になった。とするとこの公演が行われたのは、昭和5(1930)年頃から昭和25(1950)年頃の間となるが、私の推測であるので間違っているかも知れない。

東京劇場新派公演パンフレット

見学を終わって建物入り口付近の事務所に立ち寄ると、数種の資料を譲って下さった。御親切にも、建物を出て信号待ちをしているところまで係の方が追い掛けて来て、追加資料まで渡して下さった。区民挙げて素人歌舞伎復興に力を入れていることが伝わって来る。
新琴似歌舞伎伝承会から、このようなパンフレットが発行されている。

新琴似歌舞伎の紹介パンフレット表紙

同じく、「栞」という冊子には、新琴似歌舞伎のより詳しい説明が掲載されている。

冊子「栞」の表紙

プラザ新琴似の大通りを渡った向いには新琴似神社があり、その境内でちょうど屯田兵展が行われていることを聞き、帰りに立ち寄ってみた。残念ながら写真を撮らなかったため詳しい紹介は出来ないが、この新琴似や琴似という場所が、もともと屯田兵によって開拓された土地であることを知った。
大通りを札沼線方面に歩き、高架の線路の下をさらに少し歩くと、家具のニトリの大きな店舗がある。その駐車場の敷地内に、新琴似歌舞伎が上演されていた劇場―若松館の跡地の碑が立っている。

新琴似のニトリ駐車場の若松館の碑1

拡大してみると―
この碑の文章によると、もともと新琴似農村歌舞伎は、先程立ち寄った新琴似神社の境内で行われていたが、明治43(1910)年に常設館であるこの若松館が出来たことが分かる。常設館があったとは凄いことだ。

新琴似のニトリ駐車場の若松館の碑2

新琴似プラザには、田中松次郎による、若松館の「劇場開設願」も展示されていた。苦労と、それ以上に情熱が偲ばれる。

若松館の劇場開設願(明治43年)

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