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エッセイ紹介:渡辺保(2023).「猿之助は未来への希望だった」.『文藝春秋』七月特別号 (pp.151-159)―(その1/3)

『文藝春秋』の七月特別号に掲載された歌舞伎批評家渡辺保による四代目市川猿之助についての、「猿之助は未来への希望だった」という記事を紹介する。それ程長い文章ではないので、最初からページに沿って書いて行きたい。私自身のコメントはあまり入れないようにするが、入れる場合は、区別するために、【】に入れる。なお、この文章が発表された後に猿之助は母親及び父親(市川段四郎)の自殺幇助の容疑で逮捕されたことを付け加えておく。現在警察による捜査が続いている状況であり、どういう結果になるか分からないが、ここで紹介するエッセイは確かに時事的な投稿の一種でもある共に、歌舞伎に関する著者渡辺保氏の長年の鑑賞を通じた知見や理論に基づく貴重な文章であるので、紹介を試みることにした。
最初に、今年4月に歌舞伎座で上演された『新・陰陽師』という芝居を見る機会があったと著者は述べている。著者によれば、この芝居の原作は夢枕獏の『陰陽師瀧夜叉姫』で、平安時代の陰陽師安倍晴明が源博雅と共に悪霊退治に挑む物語である。猿之助は、この芝居に役者として出演するだけでなく、脚本・演出も担当していた。
『陰陽師』は2013年にも新しく建て替えられた歌舞伎座で上演されているが【私は以前の『陰陽師』の方は観た】、渡辺はこの二つの芝居作品を比較する。著者は、新作は「猿之助の手によって前作より一段も二段も上を行く進化を遂げ」たと高く評価している。前作は新歌舞伎風で、現代劇に近い台詞回しとか演出が取り入れられていたが、今回の猿之助の作品の方は純歌舞伎風であり、古典の工夫が多く取り入れられている、とされる。【新歌舞伎とは明治以降に作られた歌舞伎のための作品を言う。純歌舞伎とはそれ以前の古典歌舞伎のことを意味すると思われる。また、歌舞伎は固定された脚本を至上とする芸術ではなく、同じ作品でも脚本も演出も変わるのが普通である。】
渡辺は新作を観た際の幾つかの驚きについて述べている。一つは、猿之助が新しさで勝負するかと思いきや、歌舞伎固有の演出技法を見事に成功させていた点であり、もう一つは「俳優陣の顔ぶれの一新とその成長」である。
十前の主要な俳優は市川染五郎(今の松本幸四郎)、中村勘九郎、尾上松緑、尾上菊之助、市川海老蔵(今の市川團十郎)、片岡愛之助などであるのに対して、新作では29歳の中村隼人(安倍晴明)、18歳の市川染五郎(源博雅)が主役を張っている。「普通の役者は、若手が伸びてきたら蹴飛ばすもの。役を与えて育ててやろうとするのは、歌舞伎界では「ずいぶん変わっている」と言われそうなものです」と渡辺は書いている。【若手をそんなに簡単に出させてやらない、という意地悪=ある種の厳しさが歌舞伎界にはあり、若手に役を与えて育ててやろうとするような人は変人扱いされるということである。猿之助は今回それを覆した。つまり、猿之助はずいぶん変わった役者なのである。】
そのことに伴うもう一つの著者の驚きは、若手が多く出演しているとはいえ、役者が小粒になったわけではなく、猿之助の台本や演出によって役者たちがそれぞれの見せ場を得てイキイキし活気に満ち面白かった、という点である。
「ここから十年後、歌舞伎は市川猿之助を中心とした、この人達のものになるだろう」―それが著者による明るい未来予測であった。
ところが5月18日午前、猿之助の事件が起きた。ここからは、新聞記事風に事件の概要が述べられる―自宅で猿之助の両親が死んでいるのが見つかり、猿之助自身も倒れていた。猿之助は警視庁の事情聴取に対して一家心中を図ったと述べた。ここで書かれているのは概要だけであり、その後事態は進展している。最初に述べたように、このエッセイの発表時点との違いは、猿之助が母親及び父親の自殺幇助の容疑者となったことである。
その後、市川猿之助の歌舞伎俳優としての経歴が短くまとめられている―澤瀉屋の四代目市川段四郎の子供として1975年に誕生。歌舞伎界の傍流「澤瀉屋」が三代目猿之助の所謂「スーパー歌舞伎」によって一大勢力になったこと。猿之助もその伝統を継ぐ『ワンピース』や『新版オグリ』などを手掛け、『半沢直樹』や大河ドラマなどテレビドラマでも活躍していること。【同時に四代目猿之助の特徴は、渡辺が上述の部分で言及しているように、「古典歌舞伎」の継承に関しても意識的であることである。】
【余談であるが、遠方に向かう列車の中、右手に海が見える所で、何気なくスマートフォンのニュースをチラッと覗いて、私は初めて今回の猿之助のことを知った。最初猿之助…という文字を目に留め、最近活躍しているので良いニュースを期待して読んだら、とんでもないことが報じられていた。その日は猿之助が生き延びられるのかがずっと気に掛かった。】

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