女装百合について思うこと
今日私はpixivで女装した男の子同士の百合をテーマにしたイラストを見つけた。
「女装をしている男の娘同士の性描写」を絵師さんは百合といい、あろうことか画像を見た私は少なくても5秒は百合の絵だと認識していたのだ。
これは、私が定義した2つのことに反してしまう。
1つは百合はプラトニックであるということだ。百合は性描写をともなってはいけない。何故ならば性欲が関わると、百合が元来もつ儚さや尊さ、その不可侵性が損なわれてしまうからだ。特に生涯交えることの無い男性視点から見た場合百合とは、社会通念に反する行為を相手はどう思うのか分からない恐怖感じながらも相手に引かれる自分を抑制することが出来ない、という巨大感情から引き起こされる論理的に不可解な行為の総称である。
自分の気持ちは相手に理解されなくて当たり前だと頭では理解していても、体は相手を求めてしまう。このギャップと揺らぎに養分が含まれているのだ。
上記、養分の詰まった揺らぎの例である。
性交渉に進むと行き着くところに行き着くため、合意の有り無しに関わらず揺らぎが消滅してしまう。そこにあるのはイチゴの無いケーキよろしく、味の変わらない日常だ。
変わらない日々に儚さは存在しない。
もう1つは女装は興奮しないということだ。女装は男性が女性の衣服を身に付け異性を演じることである。その性質上、女装にはファッションの意味合いが強い。可愛くなりたいという純然な思いから生まれる変身行為だ。他者がこれに性欲を絡めるはお門違いも甚だしい。そういうのは男の娘でしなさい。
この2つの考えによって、先にあげた絵に対し興奮はしないはずだった。そもそも女装の百合はBLであり、私が普段享受するジャンルとは似ても似つかない。しかし、私は「おっええやん」となった。
かつて人間を性に狂った猿と表現した学者がいたそうだが、我々は本当にそうなのかもしれない。
頭で理解していても無意識に知性を捨てている。人の本質を垣間見えることができた。