わたしの心の介護問題

「待つ」ということ 』のなかで介護問題に関する文献をいくつか目にして、なんだか妙に共感した。たぶん、わたしは自分のなかに被介護者と介護者を内包しているのだと思う。わたしは痴呆老人であり、どこかそれを必死に他人事にしながら最期のときを待つ介護者でもある。

被介護者のその一見非常識な言動は、コーピングの表出である。呆けによってゆらいだ自分のなかで本人なりの理屈を通した結果であり、自己同一性を保とうとするあがきだということ。しかしそれは一般の論理から外れているので、自己同一性を逆に危うくさせるという悪循環を生んでしまう。

一方介護者は、そんな被介護者の悪循環から逸らさせやり過ごすパッシング・ケアをとりながら、ひたすら事態が煮詰まるときを待つ。場を整えるための小さな営みをひたすら積み重ね、そのあれこれの結果に執着せず、問題の消失の手がかりの出現を待つともなく待っている。

わたしの座右の銘は「人事を尽くして天命を待つ」なんだよね。

社会との論理のズレに苦悩し、ゆらいだ自己を自分なりの理屈で必死にギリギリ取り繕って。一方でそんな自分を他人事のようにかわしながら決定的となることも起こさずただ日々小さな出来事を重ねて、自然に収束するときを待っている。

いつも行っているこの一連は以前から自覚というか意識的にしていたので、それが介護現場と同じなのかと知ったときは、なかなかに興味深いと思った。

まわりのスピードが早いなかで、待ってるだけでいいのかな?ってふと不安になったりもするけど、思い通りにならなくて受け身になるしかないことは、結局事態が煮詰まらないと次のフェーズへと動かないんだよな。

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