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不思議な記憶

一瞬のうちに見聞きしたことなはずなのになぜか記憶の中にずっと不思議な力を持ち続けている事柄ってありませんか。定期的になんの脈絡もなくふと思い出して、でもその脈絡のなさゆえその場で誰かに言うことは憚られ、「うお〜また無事に思い出せたわ」とほっと嬉しくなるような記憶。でもまた忘れてしまい、こんどは本当に永遠に忘れてしまうのではないかと怖くなるような記憶。私にはいくつかある。ひょんな拍子に忘れ去ってしまう前に今思い出せるところにある覚えておきたいことを書き記しておく。

はじめて地球儀をみたときのこと

確か小学校低学年の頃だったと思う。我が家に地球儀がきた。開国間際の藩士さながら日本の小ささと地球の小ささに同時に驚いてしまった。何処へでも行けるじゃん!!せまっ!!世界せま!!!!と大騒ぎしておかしくって笑い転げたのを覚えてる。その頃の自分には「いやいや世界って意外と広くってかなり深いで」と教えてやりたいけど、その時の純朴な世界の見方は覚えておきたい。

どん底のキットカット五角マグカップ

マグカップをぶん投げた。何が「きっと勝つと」だ、何が「合格」だ。志望校全落ちしたことが判明したその日に家に届いたマグカップは所在無くテーブルのはじに置かれていて、なんでそんな顔してこっちみてんだよと思ってぶん投げた。悔しさを物にぶつけるのはよくないけれどその時に欠けたマグカップへの申し訳なさもあって受験校を追加してがむしゃらに勉強したっけ。

長野の別荘

別荘だったのかもよくわからないが毎夏親戚みんなで滞在する山の上の家があった。塗装されていない凸凹な坂道をずっと登るとみえてくる斜めって不恰好なログハウスで、毎年駆除していてもやっぱりずんぐりした蜂の巣が入り口に構えていた。目の前には小さな牧場があって牛のモオオオオという鳴き声で朝は目覚め、たぶん消毒されてない牛くさい生乳をコップに注いでもらってよく飲んだ(衛生的にどうだったのか謎)。田んぼが近くにあった気もするけど水っぽいところで遊ぶのは苦手だった。澄み切った空気は酸素が薄い気がして息苦しいと母の弟によく訴えていたことを覚えてる。別荘はおじいちゃんがボケて売り払ってしまったらしく10年前から行けてないけど確かに別荘たるもので過ごした夏があったことは忘れないでいたい。

小2の終業式に担任のルミ先生と握手した右手

大好きな先生だった。当たり前に3年生になっても4年生になってもいっしょにいられると思っていたのにルミ先生は転校していくという。クラスみんなでわんわん泣いた。私自身、人前で泣いたのは初めてだった。美しくて優しくていい先生だったから保護者も泣いていた。ルミ先生は困り笑いしてた。携帯もない当時、小学生の自分にとって「他の小学校に行ってしまうこと」は「遠い異国に移住することすなわち今生の別れ」くらいの一大事で、初めての大きな別れの経験だった。最後に先生の前に一列に並んで一人ずつ話す時間があって、その時に差し出した右手をぎゅっと握って「応援しているからね」と言ってくれた右手の感触と先生のまなざしのことをずっと覚えている。覚えていたい。

弟を投げたこと

マグカップのみならず弟をぶん投げた。当時私は小学校3か4年生、弟は幼稚園生だったと思う。弟は「バ〜カ」という言葉を覚え、でもそれを使うと母に怒られるので、『バ〜〜(カ、というと思ったか?残念!)ビ!!』というのにハマっていた。ニヤニヤしながら。バ〜ビ、であり、バカと言ってないのだ。バカとは言ってないから怒れないけれど幼いくせした狡猾さに、母も私も余計苛ついていた。私はいくらバ〜ビと言われてもまあだいぶ年下の弟だしくだらないしと思って無視していた。なんどもなんども無視していた。でもその時、虫の居所が悪かった。弟がいつものように『バ〜〜〜〜〜ビ!』と言ってきた。私はその瞬間ブチ切れた。猫を持ち上げる時のように首根っこを掴んでぶん投げたのだ。首根っこを掴んだ時(やば)と思ったけど止められず、火事場のバカ力のような力で投げ飛ばしたのだ。「あ、死んじゃう」と本気で思った。ドサっと床に落ちたそこにたまたま私のランドセルがあってクッションになり弟が号泣するだけで命に問題はなかったけど、あのときほど時間が過度にゆっくり進んでみえる感覚が強烈だったことはない。このあと弟がふざけてバ〜ビとやたらめったら言うことは減り、私も無視しすぎず「まじでやめて」と言うことを覚えて収まっていった。

わあ、文字にしたことによる、かたちに残すことによる安心感よ。また思い出したら文字にしておこうと思います。

今日は曇天だけど散歩はできそうだから、外にでようっと!

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