災害×ウイルスとの闘い方

令和2年7月、九州南部を「100年に一度」の豪雨が襲いました。世界にウイルスが大流行している中でも、待ってくれないのが災害です。一般社団法人アスミー主催のイベント「今、熊本はどうなっている? 感染症と水害のダブル災害の中で、共助や公助は機能したのか?明日は我が身、これから災害をどう乗り切るのか?」に参加して、私が考えたことをシェアします。

発災時の人吉市の状況は?

今回のイベントのゲストのおひとりである藤村文子さんは、人吉市役所で勤務されています。人吉市とは、熊本県南部に位置し、大体3人に一人は高齢者の計算となるまちです。

 発災当日、市役所から職員である藤村さんに連絡等は特にありませんでした。しかし午前8:30、知人から「水が胸まで来ている」とSOSの電話をうけました。このとき市役所から電話が来なかったのは、一部の回線で通信障害が起きていたからであったのは、後からわかったことです。上司に電話して相談したところ「市役所は救命できない。高いところに逃げながら救助を待つしかない。」と言われ、知人には「ひたすら高いところに上ってください」と伝えるしかなかったとのことです。この時、人吉市の避難所は冠水していたところもあったようです。

 自主避難所開設の情報を手に入れた藤村さんは現場に向かい、マニュアルも説明書もお手本もない中で「コロナ禍での避難所運営」を経験されました。手元にあったもので避難してきた人の名簿を作成し、消毒液を配備しました。指定避難所が開設されるまでの間、集まった人たちで避難所運営をしなくてはならなかったです。

 その後開設された指定避難所の運営に従事した藤村さんらがまず行ったのは、ロケーションマップ(避難所のスペースというスペースをすべてマッピング)を作成し、世帯の情報を書き込むことです。これにより、交代するスタッフや郵便配達員は避難所内の位置関係がすべてわかるようになったとのことでした。

 運営していくうちに生じたのは、支援物資やボランティアの受け入れに関する課題です。支援物資について大事なことは必要なものは避難所ごとに違うということであり、藤村さんが担当した避難所でも必要な時、必要なものを、必要な数だけ協議しながら受け入れたとのことでした。また、ボランティアは受け入れたくても新型コロナウイルスの影響で受け入れにくい状況。ボランティアの方々はPCR検査を受けてくる人、2週間ホテルで自主隔離をして来る人など、それぞれ工夫して現場に入ったようです。だんだんとボランティア団体が入るようになり、課題が整理されていく中で、被災者も主体的に活動をはじめました。「避難している場所は我が家であり、我が家をきれいにするのは当たり前」と掃除をする人たちがでてきたり、こどもたちが勉強をお互いに教え始めた事例もありました。

専門家の視点から進化する災害への対応を考える

また、今回は認定NPO法人まち・コミュニケーション 代表理事、和歌山大学特任准教授の宮定章先生にもお話を伺うことができました。宮定先生によると、災害で難しいことは3つです。命を守ること、住まいの再建、そしてコミュニティの維持です。なかでも「住まい」というのはハード的な意味合いだけでなく、どこに住むか、周りに誰がいるのかなど「生活」にもつながってくることを知りました。

あわせて宮定先生は、公務員に対してメッセージを送られていました。

・自分や家族も被災者になる可能性がある。
・自治体の職員への安心感はある反面、間違ったことを言っても通じてしまう。
・日ごろからの地域の人たちとの信頼感を築くことが必要であり、それは声の大きな人たちと築くだけではない。
・男性職員、女性職員を組ませるなど、支援には多様な視点を持たせること。

宮定先生のメッセージからは、災害時のみならず、平時から自治体職員としてどうあるべきかを考えさせられました。

公務員として、ひとりの人間として

 藤村さんがおっしゃっていたのは、有事の際、被災者から見れば通常業務の課などは関係ないということです。「被災者の困りごとに寄り添い、一緒に歩める職員」となれるよう、普段から地域に出ていくことが大切だと感じました。

 私自身は実際に災害と直接対峙したことはありません。しかし、潜在的な地域の力や課題が顕在化するのが災害だということは容易に想像ができます。

 防災の大切さはみんな頭ではわかっていても、なかなか取り組みずらいもの。いままで実際に大きな災害と向き合ったことがない私と同世代で首都圏に住んでいる20代も、まずは自分の住んでいる地域に関心を持つことが最初の一歩なのではないでしょうか。

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