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外部探検について考える

Feel度Walk & 知図 と名づけて広まりつつある作法は、決してオリジナルではない。江戸時代から明治・大正・昭和へと受け継がれてきた方法論であると言える。

その中でもこの人はという人を挙げれば、KJ法で知られる川喜田二郎先生であろう。

縁あって、月刊中央公論の書評記事として、中公新書を代表するベストセラーのひとつ『発想法』を再評価する文章を書いた。

そこでキーワードとしたのが

外部探検

である。

川喜田先生は、最初の取材活動を「探索検問」略して「探検」と呼んでいた。その後、データ化するプロセスで「野外観察」を行い、集めたデータに語らしめ、アイデアが自ずと立ち上がってくるプロセスこそ「アブダクション」と考えた。『発想法』で書かれたW型問題解決モデルの前半が「野外科学」なのである。

では、「探索検問」とはどういうものなのか。そのあたりが『発想法』でははっきりしない。ところが昨年、川喜田二郎の第1回移動大学にも参加し、一番弟子である國藤進(北陸先端科学技術大学院大学名誉教授)先生にお話をうかがったとき、下のスライドを見せてくれた。

「R(ラウンド)0」が肝心だった

「探索検問」とはいうものの、まずはラウンドゼロのテンベア(ぶらぶら歩き)から始めることが肝要だったのである。テンベアとはスワヒリ語で「放浪」。まさに Feel度Walk から始めていたわけである。

小学校五年のころ、私は植物採集とかの道楽があった。これに熱中していたら親から注意されて、「お前ね、ともかく中学に入ってからにしなさい」なんて言われる。勉強に差しさわりがあるということなんでしょう。中学に入って登山やなんだかんだ、またやりたいと思うことをやっていると、親や先生から注意される。ともかく高校へ入ってからにしなさい。それで高校に入りますとね、ともかく大学に入ってからにしろと言われる。大学に入ると卒業してから、卒業するとこんどは就職してから、その後にはともかく嫁さんもらってから、なんて話になるものです。それで終わるかと思うと、ともかく課長に出世してから、だ。いったい何ごとか。私はそんなことばかりやられてきたから腹がたってしようがない。こういう思想を「ともかくの人生」という。ともかくの人生をやっていたら「本番の人生」がないですよ。

川喜田二郎『人間の創造性はどうすれば培われるか』

何かの役に立ちそう、目的にかなっていそうをまずは手放す。

なんとなく気になる

ことを道々集めてゆく。するとその結果楽しくなってくる。だから「道楽」なのだ。「道楽」は際限がないので、本業を圧迫する恐れがある。ただの遊蕩に見える。だから戒められてしまう。しかし、今の私たちに決定的に欠けているいるのは、ゆるりと道楽する姿勢ではないだろうか。

「対象に没入しておのれを虚しくする」といいますと、主体性がなくなるという考え方がひじょうに多いのですが、実際そうであろうか。違うのです。じつはおのれを虚しくして対象に没入したときのほうが、その人の主体性がもっともよく発揮されていると言う状況なのです。そこに面白いところがあると思います。状況に没入して自らを捨てたほうが、自らが貫徹するのです。

川喜田二郎『情報の伝達から情報の創造へ』

有機的な全体をなす現実そのものになりきることによって、かえって現実の主となる。それが川喜田二郎が目指した野外科学的方法である。となると「道楽」として脈絡もなく「没入」する感度=Feel度が大事になるだろう。

移動大学の特色は、いわゆるフィールドワークにみな出かけるということなんです。各チームが思い思いに手分けして、取材活動に出かけます。
このフィールドワークでは、このごろではなるべく最低一泊はしてこい、というわけですね。

つまり、毎日、日帰りで行ってくるフィールドワークは腰が座っていないということですね。「今晩十時までに帰ってこなくちゃいけませんよ」なんてお母ちゃんにいわれて、叱られるのを気にしながら帰ってくるような状態では、第一、対象に対してドップリ腰をすえて耽り切るような気持ちになれないものですから、愛情がわかない。そういう精神状態では取ってくるデータの質もよくないんです。そういう状態では、他人の取ってきたデータまでがめつく漁ってやろうという欲深い気持ちにもなれない。ところが一泊でもしますと、その訪問先とかいろんな対象の味が体の中に染み込んでくるんです。情が移ってくるんです。したがって、質のいいデータがとれる。そうするとますます欲が深くなって、他人のデータにもよいのがないだろうかと、こう思うんじゃあないかと思ったんです。

ともかくフィールドワークに出る。そこで、生まれてはじめてフィールドワークをやった人もいるんですが、しかし全体にフィールドワークはみな歓迎されてまいりました。「おもしろいもんだ」というわけですね。

それで、やはり「なまの物ごとに触れるというのはこういうことなのか」と感激する人が多くなってまいりました。今では移動大学の大きな特徴のひとつは、このフィールドワークだろうと思うんです。

川喜田二郎『移動大学と集団的問題解決学習』

テンベアラウンドというFeel度Walkの下支えがあって、「腰のすわった」フィールドワークができる。「ワーク」を支えるあてもなき「ウォーク」。「フィールド」での観察力を高める「 Feel度」。この二つはコインの表と裏で、常に一体となっている。どちらが先で後ではなく、常に両輪をまわしてゆく。

ここで集まった気になる発見を素直に描いたものが「知図」だ。まだ海のものとも山のものともわからない素材だが、私たちのなんとなくセンサーがとらえたもの・ことの中に価値が潜んでいる。その自分なりの価値をお互いにシェアし、語りあう。それを仲立ちするのが「知図」だ。

人びとは、人間というものは、創造的行為で結ばれるんだ。結ばれると、そこに足し算ではなくて創造的行為を通して、結果的にその集団に生命(いのち)が発生するんだと思うんです。その発生した生命、生命の発生を支えた人びとはふたたび集まって何かをやって、ふたたび生命を発生させようとする強い衝動をもっているということです。くりかえし生命を発生している集団があった場合には、しだいにその集団は、一時的な生命の発生から集団それ自体がひじょうに生きもの性を帯びてくるということです。そしてそれが累積化していくと、ついには生き物になってしまうんです。

川喜田二郎『移動大学と集団的問題解決学習』

同じ場所を同じ時間歩き、ともに見出した何かをあからさまに見せ合うとき、

「あ!そんなことがあったか!」
「こりゃあ面白い!」

という風に「発見集団」としての喜びと幸福感に満たされる。これが「創造的行為」で結ばれるということだろう。

今、一番失われているのは「外部探検」。まずはそこから始めてみようではないか。





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