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東海道かわさき宿交流館(神奈川県川崎市・川崎駅)

東海道五十三次の中でも序盤に登場する川崎宿。江戸を出て最初の川である多摩川を越えた先にある宿場町として栄えた場所である。現在の川崎は戦災によって多くの資料を消失し、高度経済成長の途上で街の風景も一変しており当時の面影はほとんど失われてしまったものの、その記録と記憶を掘り起こして現在に残すために設けられたのがこの東海道かわさき宿交流館である。展示スペースの他にも地域活動や交流の場としても使用される施設になっている。

展示室は2階と3階。階段で上がって行くと1段ごとに東海道五十三次の宿場町が並べられていて、東海道を一歩一歩すすんで行くような感覚になる。2階は川崎宿についての展示で、川崎宿で起きた物語を紹介している。六郷の渡しから、田中本陣、稲毛神社、佐藤本陣と奥に行くにつれて宿場町を進んで行くように床が作られているのが凝っている。

手前が多摩川で奥へ進むと宿場町へ入って行く

川崎宿の模型展示もある。俯瞰で見た時に現在の地形とかなり違っていることが興味深い。坂道の底にはかつて沼があったり、こう考えてみると川崎に限らずどの町も坂道や高低差があるところには地形に伴う何らかがあったのだというのが想像できる。

こちらは1階の模型 地形がよくわかる

実は川崎宿には松尾芭蕉も関係しているという。生前最後に故郷の伊賀へ向かった芭蕉が弟子との今生の別れとなったのが川崎宿で、その時に詠んだ句は今でも現地に石碑として残されているらしい。ちなみに記念写真も撮れる。

衣装も貸し出ししてるよ

3階は多摩川との関係にも広げた川崎の歴史を紹介している。川崎はかつて多摩川の氾濫に悩まされる地域だった。この水害をなんとかしなくてはと立ち上がったのが小泉次大夫という代官で、川崎市内の至る所に流れている水路である二ヶ領用水は彼が行った事業である。次大夫の作った二ヶ領用水を後の時代に川崎宿の名士である田中休愚が発展させたことが現在の川崎につながっており、この二人をなくして川崎を語れないというほどの人物。至る所に彼らの史跡が残っているという。海を干拓した池上幸豊と合わせて川崎の三賢人と呼ばれているらしい。

次大夫は世田谷の民家園の名前にもなってる

企画展示室では一転して川崎出身の詩人である佐藤惣之助の生涯を紹介している。萩原朔太郎や室生犀星らとともに詩人として大正時代に活動、また詩人としてだけでなく沖縄(当時は琉球)を訪れて沖縄文化を紹介したという。
作詞家としても多くの業績を残しており、古賀政男や古関裕而といった人物とも仕事をしている。あの「六甲おろし」も彼の作詞によるものというのが意外だった。

濱田庄司と友達だったり朔太郎の義弟だったり人脈が広い

1回は万年屋風お休みどころという休憩スペースがあったり、奥の方にも交流スペースが設けられているので川崎観光の際の拠点として使われるイメージ。もうすこし時勢が落ち着いたら多くの人が訪れることになるのだろうか。トイレはウォシュレット式。 

横になりたいものである

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