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東京女子医科大学吉岡彌生記念室(東京都新宿区・若松河田駅)

東京女子医科大学病院の一帯は多くの病院や研究所が立ち並んでおり、学生のみならずたくさんの通院者、医療従事者も行き交っている。その隅にある彌生記念教育棟の1階にあるのが本校の創立者である吉岡彌生の業績や学校の成り立ちを紹介する吉岡彌生記念室である。かつては1号館として長く学校を支えた校舎の跡地にあり、その建材なども残されている。

日本の女子教育を創設した人物の一人と言っても過言ではない吉岡彌生。漢方医の家に生まれた彌生は、男尊女卑の風土が色濃く残っている時代に済生学舎へ入学して学び女性医師の資格を獲得した。なお、荻野吟子生沢クノに次ぐ三人目の日本の女性医師である高橋瑞子も同校の出身で、彌生はこの高橋を尊敬したという。開業した彌生はさらにドイツ語を学ぶために東京至誠学院という私塾へ夜間通学し、そこで出会った学長の吉岡荒太と結婚した。

吉岡夫妻

当時は女性が社会的地位が低かったことを目の当たりにしてきた彌生は、母校の済生学舎が女子の入学を拒否したことを契機として、経済的能力を与えること、婦人に適している立派な職業であることから医学医術を専門に教育する機関として女医学校を創立することになる。初の卒業生である井出茂代は戦後初の総選挙に立候補して女性代議士の一人にもなっている。彼女らの卒業式では来賓からの「女医亡国論」で紛糾したという。いかに当時の社会的地位が低かったかが窺い知れる。

女子の教育には苦難の時代だった

学校でのモットーは「至誠と愛」つまり、きわめて誠実であることと慈しむ心で、教育・研究・診療のすべての場で求められる姿勢のことである。もともと夫の荒太が経営していた東京至誠学院にちなんでいる。なお戦時には集団学童疎開で地方へ疎開した児童たちの診療を東京女子医科大学の前身にあたる東京女子医学専門学校の生徒たちが担っているなど、そのモットーは現在に至るまで脈々と受け継がれているのである。トイレは使用不可。

旧校舎の遺構も一部だけ残っている

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