合理的配慮に潜む闇
弱視難聴の奈良里紗です。
障害者差別解消法が我が国でも施行され、すでに7年がたとうとしています。
障害者は自分に必要な配慮を相手に伝えること=医師の表明をすることで、合理的配慮に関する対話がはじまります。
意思の表明に関する教育プログラムがまだ未成熟な中で法律が施行され、様々な現場で混乱が生じています。
合理的配慮を要望するとき、
〇〇ができないから、△△の配慮をしてほしい、そうすれば、××ができるようになる。
といった3つの要素をセットで伝えることになります。
逆に、医師の表明が難しい障害の特性の場合、合理的配慮を円滑に受けることは難しいのです。
さらにいえば、自分の障害を隠しておきたい人たちにとっては、この法律ができたことで配慮が受けづらくなったということもありえるわけです。
さて、私の経験では、お決まりのメニュー、例えば、マックでいうならチーズバーガーとか、てりやきバーガーとか、一年中、常にあるようなメニューを、合理的配慮として要望することは比較的簡単です。
すでに前例もあり、多くの人がその配慮の合理性についてある程度共通理解できているからです。
一方で、新メニューをリクエストするのは、なかなか大変です。
本来、合理的配慮はオーダーメイドであり、新メニューが含まれることは当たり前なのですが、そこがなかなかうまくいかないのです。
特に、私がきついと感じることは、
自分は健常者に比べて〇〇ができない
ということを何度も繰り返し主張しつづけなくてはならないということです。
それこそ、日々、
「自分は4年1組のみんあに比べてできません」
「私はみんなに比べて体育ができません」
とできないことを考え、それを伝え続けていると、自分が本当にできない人間なんじゃないかと錯覚してしまいます。
また、障害の影響によってそれがどの程度難しいのか客観的に示すことができるもののほうが少ないと考えています。
もし、私が一瞬、健常者の体になってやってみたときのスコアと、今の状態のスコアを比較できれば、障害ゆえということが特定できるかもしれません。
実際には、健常者と同じ試験を障害の体の状態で受けるわけで、もともと、不利な状態で受けた結果に対して、どこまでが学力の要素でどこからが障害の要素なのか、そこを厳密に切り離して証拠を提示することは困難なのです。もちろん、医学的な検査や各種検査を通じて、ある程度、いえることもありますが、それが100%ではないわけです。
こうやって、合理的配慮を受けるためだけに闘い続ける日々は時間も労力も、何より精神的なエネルギーを消耗していきます。
もちろん、合理的配慮を提供する側も、気持ちよく決断するためにそういった客観的な情報を求めている、あるいは、そういった情報を判断の根拠にしたい気持ちはよくわかります。
でも、ちょっとやさしさをもって相手の気持ちも考えてみてほしいと思うときがあるのです。
〇〇ができませんということを証明しなくては、配慮が受けられない障害のある人のことを。
自分の親世代の女性たちが社会進出するときにうけたような痛み、苦しみを、障害分野の変革期である自分が受けているのかもしれません。
きっと、いい方向へと社会がかわっていく、その痛み、苦しみなのだとなんtのか前向きに、気持ちを切り替えないと、なかなか厳しい、合理的配慮への道なのでした。
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障害に関連する様々な問いかけをこれからも続けていく活力にさせていただきます。
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