見出し画像

果たして、人間に欠陥品はあるのか?

今日は「イギリスの障害学の理論と経験」の第44章「遺伝学・障害・生命倫理学」(Helen Caplan)を読んで思ったこと。

まず、この本自体が英国で障害について学ぶ学生に対する入門書という位置づけであることを考えると、入門の段階で障害の遺伝や生命倫理学に関する内容を知るということは我々も見習いたいところではないかと思った。
私が障害について学んだ筑波大学は我が国における障害科学分野において高い教育水準を誇っている。そう、私も入門段階で出生前診断をはじめ、障害をとりまく社会のとらえ方、倫理観について学んだ。まだ、生まれてくる前の命に対して、障害があるという理由で中絶を選択される現実を知った時、なんとも形容しがたい気持ちがわきおこってきたことをよく覚えている。
出生前診断により特定できる障害は限定的であるがめざましい医療の発展の中、特定できる疾患はどんどん増えていくことは容易に想像できる。

この書籍が執筆された段階では、英国では障害を理由とする中絶に関して月齢の制限がなかった。障害のない胎児を臨月で中絶することは認めていないのに、障害があるとわかった胎児に関しては中絶を認めている。筆者はこういった法律から改善していくべきと主張している。

このような現実を他人事としてとらえることができないのは、きっと私が障害者だからなのだろう。
遺伝子レベルでみたら、きっと、私は欠陥品扱いだ。笑
でも、一方で思う。遺伝子の欠陥って何?今、健常者といわれる人の遺伝子の中にも劣性遺伝で出現していない様々な遺伝子をもっているはず。
がんや心疾患なども遺伝的リスク要因が高いといわれている中で、障害に関する疾患だけ欠陥品と定義されるのはなぜなのだろう。
もっと、医療が発達したとき、私が胎児だったら中絶されていたのかもしれない。
将来的に視覚障害と聴覚障害となる子どもを産むのはかわいそうとか、周囲の人が反対されて生みたくても生めなかったりするかもしれない。
たまたま、私の障害は出生前診断で特定できる疾患でなかっただけ。

どんな人間を欠陥品と定めるのか、それを決めるのは人間。
だとしたら、その欠陥のある私を必要としてくれるのも人間。
私を排除したいと思うのも人間。

私はこの欠陥をもって生まれたことを誇りに思っているし、幸せに感じている。
欠陥があることで不自由や大変に感じることはあっても、それはほとんど解決できること。

五体満足に生まれてきますようにという安産祈願をみるとき、
五体不満足でも幸せになれるからねと伝えたいと思う。

さて、人間はどこまでを人間の権利として考え、どこからは神の領域として技術的にはできてもやらないという境界線をひくのか、議論が求められている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?