奈良 東大寺の修二会ついて思うこと

奈良に修二会という行事がある。

今から1300年前の奈良時代から始まるもので、国家のために祈る法会だった。仏教が導入されてのち、仏教によって国の安泰を祈ることが定着していき、それが現在まで続いている。

多くのお寺で国のための祈りが捧げられていたが、一度も途切れることなく連綿と祈り続けてきたのが、奈良・東大寺である。

修二会は二週間かけて祈られる大法会であり、その歴史の深さ・修められる行法の複雑さ・それを支えるひとの多さとあいまってなかなか消化できない。

毎年できるだけ法会を聞かせていただいて、専門家のかたが話をするといえば聞きに行き、ちまちまとした歩みを進めながらようやくぼんやり見えてきた「気がする」という感じ。修二会の凄さとか核心とか、本当に大切なものはまだまだ遠い気がする。

毎年修二会の季節になると、たぶん一生がかりで挑んでいく宿題に立ち向かう気持ちなのだけど、今年はコロナのこともあって色々制限がかかり、余計に修二会にたいする気持ちの向け方を再確認することになった。

修二会は凄い。修二会は深い。修二会は把握しきれない。そういった言葉をうわごとのように繰り返しながら、どこがすごいの?どこが深いの?どこが把握しきれないの?とその賛辞をどこまで理解しているのかと自分に問いかけてきたような気がする。

凄いということを言語化するならば、たとえば今年で1270回を数えたこと。1270年間一回も途切れたことがないんですよと声に出すと、なるほどそれはすごいとなる。でもその1270年の重みが本当のところどこまでわかっているのか。声にだして修二会を絶賛すればするほど軽くなっていく気がする。

ところで修二会が始まる頃、サブカル界のスター的存在「新世紀エヴァンゲリオン」という映画が公開された。

好き・嫌い。知ってる・知らないを超えて、社会現象の一端を担った作品である。地球が壊れるレベルの危機の中、14歳の少年が戦うことを強いられる物語。主人公の苦悩はそのまま、同世代の苦悩とシンクロして、さらに不安や孤独・理解してもらえない痛み・他人との軋轢など「人間関係」に悩む人たちに突き刺さっていった。

20年を超える長きに渡ってテレビアニメ・映画へと場所を移して物語は進み、今年2021年春の劇場公開で完結した。

熱烈なファンはもちろん、その周辺の人々まで「エヴァの完結」を見届けようと映画館に押し寄せた。コロナ禍の座席制限の下で、興行収入は60億円を突破。歴代シリーズの最高収益を更新している。

私は25歳位でエヴァと出会い、熱心なとはいえないけれどひととおり見続けてきた。正直物語とシンクロすることはなかったけど、物語が発するエネルギーにとても新しいものを感じていた。そこに描かれていたのは「理不尽に痛めつけられることへの絶望や悲しみ。助けてもらえない・大事にしてもらえない(と感じる)痛み」だった。こういう個人の鬱屈めいた感情は、これまで大衆の共感とならなかった。なぜなら、簡単にいうと「エヴァ以前」の日本はとても恵まれていたから。

恵まれた人々が、そもそも前提が違う「しんどい人」のことはなかなか理解できない。彼らの呪詛は愚痴でしかない。

自己責任、という言葉がカジュアルになって久しいが、自己責任だよと言える人々が持って生まれた恩恵~親がまともであるとか、働ける場所があるとか・そこがそこそこホワイトであるとか。戦後の発展と、空前の好景気。わすかでも貯金すれば数%という利息がついていた時代。それがバブルの崩壊で世の中が崩れていったとき、すでに安全地帯にいる人達には、彼らの嘆きは地下鉄の轟音のように遠いものだっただろう。

平成が始まって3年ほどでバブルが崩壊し経済が挫折したあと、オウム事件が起こった。他人のために働くはずの宗教が私利私欲に突き進んだ成れの果てがオウム事件だと思うのだけど、それは「心の時代」の終焉だった。あの頃とにかく「心が大事」的なことがきかれたけど、それは「心が大切」だということが蔑ろにされていたからこそ、あえてそう言って気を紛らわせていたのだと思う。「心が大事」というひとに「心が大事」にされていた形跡はなかった。オウム事件の直前に阪神大震災が起こり、回復しかけた頃リーマン・ショックが訪れた。さらに東日本大震災・原発の危機。

思えば平成という時代は、経済的にも精神的にも、すでに金属疲労を起こしていたものが音をたてて崩壊していった時代なのだと思う。悪夢のような平成の苦悩は、「エヴァンゲリオン」の苦悩とリンクしていた。

そして、平成の終了と時を同じくして「エヴァンゲリオン」にも幕がおろされた。

100年かそこらの人の人生の中で、いくつもの時代を経験できない。私は昭和・平成・令和を知ることができたが、物心ついた時でいうと平成の時代が人生の大部分を占めている。31年間という長い間、嫌なことばかりではなかったけれど、やはり平成が持つ挫折感・疲労感は拭えない。

日本の歴史全体で見ると、戦争中とか国の体制が変わったときとか、もっとしっちゃかめっちゃかな時代はあって、何を持って苦労というのかは難しく、平成の苦労は苦労といえないのかもしれない。でもそれは相対化するのは難しい。

ただどんな時代であっても修二会は粛々と修められていた。国民の環境・感情・歴史的事件に関わらず進められてきた。どんな年もやるべきことをやった。ただ、それだけ。

時代は変わるけれど、いい時も悪い時もあるけど、ただ積み重ねる。修二会の凄さを理解するのは、この「やるべきことをやる」ことの難しさを知るのと似ているのかもしれない。そしてそれは世代を重ねて受け継がれているのである。どんな状況でも「やめない」ことを人の一生でもって受け継いでいく。これ以上に凄いことはない。


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