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利他行やってみた

奈良県に「吉野」という場所がある。

古くから桜の名所で、杉やヒノキなどの銘木があるところで、奈良の名物「柿の葉寿司」のふるさとでもある場所。そして修験の聖地でもあるところだ。

修験とは何か

山林にて修行し、霊験をあらわすこと。山の力を頂いて、常ならぬ力をもつこと。修験を実践する人を「修験者」という。彼らは山で修行するので「山伏」ともいう。山に入っていない時は「山伏」とは言えないという。では何と呼ぶのか。「行」を行う者、行者だ。

この行者さまと「修験について色々話す」イベントをした。行者様とは女性同士だったので「女子トーク」しましょうということで、タイトルは「修験!女子トーーク」女子じゃないと参加できないんですか?と聞かれたけれど、そんなことないです(^^)

世の中の人で「修験」や「山伏」「行者」と聞いてピンと来る人がどれだけいるだろう?
正直、どんなジャンルかすらわからない人の方が多いと思い。
でも昔は違っていた。
ひとつの村にひとりは行者さまがいて、治せない病気を治したり、村の危機を救ったり、誰も考えつかない知恵でもって尊敬を集めていたと思う。
昔は行者さまの数も多かったし、誰もが好きなことを学べる時代でもなかった。

行者という人は確実に少なくなっている。でも、今もその流れをくむ人がいて、日々修行と実践を行っているのだ。彼は何をしているのか。それはずばり「利他行」である。

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利他行とは読んで字のごとし「他人の利益のためになることをする」だ。
情けは人の為ならずという言葉がある。人に与えた恩は巡り巡って自分のところに帰ってくるという。だから、情けをかけることは自分を助けることにつながると。

利他行もそれに似ていると思う。でも決定的に違うのは、「自分が幸せになりたいからいいことをする」という、そんな狭い精神じゃないと思うんですね。

利他行は自分の利益を棚上げしていると思う。
生物たるもの、自分の利益なくして生きられないものだけど、それでもどうしてもそんな気がする。
この時代に、自分の利益を放棄できるのかと思う。
でも、少なくともその気持ちを心にもっている。
それが私が話をした行者さまだ。

自分の利益を放棄するというと、なんだか難しくって、偉くって、前人未到な気がするけれど。
そういうわけでなくって、ただ流れる雲を見て「きれいだな」と感想を持つのと同じしぐさで「人のために祈る」とか「誰かの役にたつことを考える」という感じ。

今の世の中はお金が大切で、お金を稼ぐために勉強をしてスキルを磨いてということがもてはやされるけれど、それはただの仕組みであること。利他行は資本主義の上にだって成り立つし、でも資本主義がないとできないわけではない。

ただ生きる。シンプルに生きる。そのシンプルさをふりまくこと。それが利他行につながる気がする。

行者様とのお話はめちゃくちゃ面白くてためになった。
また詳しいことはぼちぼち書いていきたい。




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