奈良 大文字の送り火
奈良での夏の慰霊祭
8月15日には終戦記念日。
奈良では大文字の送り火が行われます。
奈良は古代からの遺産が多いために空襲を免れた…とよく聞きますが、実は空襲もありました。
東京や大阪大空襲の規模と比べましたら小さいかもしれませんが、機関銃射撃の跡が残る場所もありますし、奈良出身の方で従軍された方も大勢いらっしゃいます。
送り火は戊辰戦争以後、第二次大戦で犠牲になった英霊たちの供養の為に始められました。
高円山に浮かび上がる大の字は、宇宙を意味するとも言われ、奈良の戦没者の魂への祈りの文字です。
これとは別に戦没者おひとりおひとりへの供養も毎年行われています。
大文字の送り火は、京都の五山の送り火とくらべて知名度は低いですが、奈良の方はぜひとも知って、祈ってほしい行事です。
送り火の歴史
奈良の大文
字送り火は昭和35年から始まりました。
発案者の鍵田忠三郎は、奈良市長の経験者であり、自身も従軍したした人でした。
戊辰戦争から第二次大戦終結まで、奈良県下2万9243名の英霊を供養する行事です。
現在では戦争のみならず、病気など含めて亡くなった方を供養する追悼する慰霊行事です。
現在は高円山の山麓で行われていますが、最初は若草山の少し南の方を考えていたそうです。
しかしそこは東大寺の旧境内。
当時はまだ文化財保護法はありませんでしたが、大仏殿のそばで火を使う行事は危ない、ということで断念。
そこでさらに南にある高円山が選ばれました。
高円山を眺めると、三角形にえぐれている場所があり、そこに火床が設置されます。
煩悩と同じ数と言われる108つが設置されるのですが、令和4年はコロナ対策のために数を減らしての設置だったようです。
点火の前には慰霊祭があり、飛火野というところで仏式&神式による供養が行われました。(今年は場所を変えたとのことです)
この英霊たちの名簿が奈良の大安寺にて保管されています。
もともと、大安寺は平城京№1と言っていいお寺でした。
奈良の№1大寺 大安寺
もともと、聖徳太子さまがお作りになった「熊凝精舎」という仏教道場のようなところを、舒明天皇が立派なお寺にしたことから始まるといいます。
天皇が関わるお寺を「大寺」というのですが、大安寺はその大寺のひとつでした。ほかの大寺といえば「東の大寺・東大寺」「西の大寺・西大寺」くらいで、大寺はとても価値のあるものだったのです。
この大安寺は、その壮麗さ・規模の多さでほかのお寺を圧倒し、当時平城京にやってきた留学僧たちが宿泊する迎賓館的な役割ももちました。
あの弘法大師 空海も、若かりしころ大安寺に居住していたといいます。
この大安寺の僧侶の中で「勤操」(ごんそう)というお坊様がいました。
彼は先述の空海の師匠だったと考えられる人物です。
彼を含めた古代の僧侶は、山に入り山で修行していました。
お山の力を得ることで自身のパワーとしていたのです。
このお山での修行のために入っていたが、大安寺から近い高円山でした。
高円山にはかつて「岩渕寺」というお寺があり、そこを拠点にして修行していたといいます。
今はすでに無くなってしまっていますが、かつては壮大な伽藍が整備されていたそうです。
現在新薬師寺というお寺にいらっしゃる十二神将は、この岩渕寺にいらっしゃったものが移籍したというくらい、素晴らしい御仏がそろっていたようです。
この岩渕寺が大安寺の僧侶・勤操の修行した寺であったこと…岩渕寺と大安寺に交流があったこと。
そこから、岩渕寺があった場所である高円山での慰霊行事に、大安寺が関わることになり、現在の送り火のお世話を大安寺さんがしてくださっています。
追悼の火は「送り火」であって「大文字焼き」ではないっ
送り火の「大」の字は、一画目の一が109メートル 二画目が164メートル 三角目が128メートル
大は人形であり、宇宙を表す文字であり、重んじる・貴ぶ気持ちも入っています。
高円山はかなりな急斜面ですので、ここに文字を設置するのは大変です。
普段からの草刈り、枝打ちなども含めて、大変な労力がかかっています。
毎年この大文字の送り火を続けるために、寄付金集めもされています。
大安寺をはじめ、東大寺・西大寺の僧侶の方が揮毫された「大」の文字のうちわが販売されています。
ぜひ8月に奈良を訪れる時は、この送り火のことも気にかけて下さい。
そうそう、これは追悼のための「送り火」であって、「大文字焼き」ではありません(^_^;) 焼き…は若草山の山焼きがありますけど、送り火ですので…。
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