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#6_ジャニオタという遺伝子を持って生まれた女

エイトが関東Jr.にメラメラ対抗心を燃やし出演していたNHKのザ・少年倶楽部。

絶大な人気を誇り、Jr.時代にかつてない記録を打ち出してきたKAT-TUNもまた、私のジャニーズ人生に大きな影響を与えた。

中学時代、夢小説のサイトで出会った友達が仁のファンで
話すうちに、私は自然な流れで亀を好きになっていった。

東西対決、というような構図が少クラから多く取り上げられるようになり

タッキーが初演したDREAM BOYという舞台を
2004年からKAT-TUN&関ジャニ∞編として舞台公演の前半を務め、亀はその後2012年まで座長を務めた。

翌年のHey! Say! Dream Boyでは後半の数日間だけりょん(錦戸亮)と内くんも出演予定だったが
内くんは肺気胸で入院したため途中降板してしまい、最後までの出演は叶わなかった。

2004年の8月に東京で約1ヶ月行われたSUMMARY of Johnnys Worldでは
NEWSとKAT-TUNが共演しその後も後輩が受け継ぐ舞台となり

2004年~2005年に行われたKAT-TUN Live 海賊版は
デビュー前のJr.グループでは異例の名古屋、大阪、横浜の3都市で開催され

SUMMARYと海賊版は両方ともコンサートDVDとメイキング映像は擦り切れるんじゃないかと思うくらい観たし
もうそこに出てくるフレーズや言い回しで日常会話をするほどに私たちの世界は染められていった。

それこそ少クラも、2006年頃からは姉が大学進学で東京に住んでいて
姉はよく渋谷のNHKホールに収録に行きその収録の裏側の話を聞くのが楽しみだった。

いつかどこかで会いたいと夢を見ながら、
この豪華な面々が、この大好きな人たちが、ずっとテレビの前やステージの上に居てくれると思っていた。

2005年1月から放映された“ごくせん”第2シリーズで“ごく出”=ごくせんを見て好きになったファンと古株が対峙したり
ファンと本人たちの関係の激化が一番酷かったのもこの時期のように思う。

当時、本人たちの移動に合わせて追っかけをする人やその行為がエスカレートしたヤラカシと呼ばれる人が増え
追っかけやヤラカシに本人たちが暴言を吐いたりしたことがメルマガ配信で回ってくるような時代だった。

当時、あのインターネットが出始めた頃に経験してしまった本人たちのストレスは計り知れない。

今でこそ、忠義始め本人たちが公式を通して被害を訴えられるようになったものの
この時期に彼らはきっとやり過ごす以外の方法がなかったんだろう。

まあ、その中でも可愛い子をつまみ食いしたりというストレス発散方法を取ってしまうこともあったから
勘違いした女たちが僅かな希望をかけて追いかけたんだろうけど。

2006年に入ってすぐ、KAT-TUN VS KANJANI∞ DREAM BOYSでエイトと主演を務めたのち
KAT-TUNのCDデビューが発表され、デビュー前のグループでは初の東京ドーム公演が開催された。

このときも奇跡のスタンド4列目が当たりそこで見たKAT-TUNは輝いてたなぁ。

KAT-TUNは同年3月22日にCDデビューし、2006年4月から関ジャニ∞とNEWSとともに3組合同ファンクラブYou&Jが発足した。

今考えればあり得ないがこの3グループのコンサートチケットの申し込みが1名義で出来たのだ。

そんな新しい取り組みも始まり、KAT-TUNはこれからもずっとこうしてジャニーズの歴史を塗り替えていくんだろうと思っていた。

デビューが叶った年の10月、赤西仁がアメリカ・ロサンゼルスへの留学のため無期限の活動休止を発表した。

「こんな前代未聞は要らないんだよ。」とファン全員が叫んだと思う。
同時にみんな、絢香の三日月を聴いて泣いていた。

今の仁の活動を見て考えれば、本人はもともとアイドルという枠にいること自体が苦痛だったのかもしれない。

ジャニーズを退所して結婚しても、子供ができても、
同じように、もしくはそれ以上にファンを魅了できる仁はやっぱり只者ではないと思うし

りょんや山Pが独立することになったのも、きっと仁が示してきた道があったから出来たこと。

「X×Y!バカ西!」って言われてて欲しかったけど
もうそんなイジり方ができないくらい、語学力もつけて努力してすごい人になってしまった。

でも、ジャニーズというアイドルが入り口で、ここから好きになった私にとってはとんでもない衝撃だったし
KAT-TUNは、KAT-TUNが“6人でいること”が全てだった。

6人、仲が良くない時期もたくさんあっただろうし
異端児と言われながら調子に乗ってた時期もあっただろうし

でももうその嘘がつけない、バカみたいに分かりやすいメンバー全員が、愛おしかったんだよ。
開き直ってTEN-Gをずっと歌ってて欲しかった。

一度戻ってきた仁は結局、2010年にソロ活動専念のため脱退が決まり、2013年には聖が事実上の解雇という形で脱退した。

2016年に田口も退所を発表し、KAT-TUNは充電期間に入ることになった。

約2年の充電期間に入る前、行ったコンサートのツアーグッズに
“充電器間”を発売した「ちゃんと帰ってくる」というKAT-TUNの意思表示とその愛と、

グッズが売り切れた場合は物販のスタッフから「充電器間終了しましたー!」という声が聞けるというシュールさを予想して喜べるほど大人になったファンも、私は大好きだと思った。

充電期間後、3人で活動を再開した亀たちはメンバーの脱退をバライティー番組でおちゃらけて話したりもしていたけど

あの時あの時代、私たちが6人のKAT-TUNに励まされ、元気をもらっていたことは嘘じゃない。

KAT-TUNが居てくれたから、私は辛いだけだった学生時代、真っ直ぐ生きて来られたとさえ思う。

KAT-TUNが居なければ、今の私は絶対に居ない。

聖も、今でも待ってくれているファンはきっと絶対居るから負けないでいつか戻ってきて欲しいと思う。
私も友達も、この次帰ってきたら、絶対ライブ行こうと話してる。

誰に何を言われようと、あの時見ていた光景と思い出だけは
絶対無かったことにはしたくない。

2015年、私がオーストラリアへ行く前にテレビ局でアルバイトしていたとき
映画の宣伝でPRに大阪に来ていた亀に会ったことがある。

そのとき、当時あれほどヤラカシたちに怒り傷ついてきただろう亀が
スタッフさんたちに話し、静かにするように促して出待ちのファンに挨拶していた。

その出待ちのファンの前に出る前、数十秒間エレベーターの前で待っていた亀に一言「お疲れ様です。」と言った私に

挨拶を返してくれた亀を、私は一生忘れない。

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